2010年03月19日

秋葉原で桃井はるこさんと取材&対談

桃井はるこさんと秋葉原で 本日(3月19日)は、午後から秋葉原に出かけ、『現代視覚文化研究』(三才ブックス)という雑誌のために、「元祖・アキバ系女王」の異名をとる桃井はるこさんと一緒に、写真撮影と対談(写真はクリックで拡大します)。

 こちらは1970年代はじめからのアマチュア無線→マイコン→パソコン→パソコン通信→インターネット……という純正アキバ系で、いまの秋葉原で行くところといえば、「ジャンクの裏道」みたいなところばかり。いまの「萌え系秋葉原」は避けて通っているようなところもあるが、桃井さんは、そのあたりの変遷も、実によく知っている。しかも、ショップやビルなどの固有名詞と場所が、ずばずばと出てきて、実に素晴らしい。

 桃井さんが、ときどき買い物をするという「千代田海藻」でも、でっかい昆布を手に撮影させてもらったり。中学生の頃からアキバに通いはじめ、高校生時代にはアキバでバイトをしていたという経験をもつ桃井さんは、ブームに乗ったアキバのアイドルとは違い、根っからのアキバオタク(ホメ言葉)。繰り返しになるけれど、実に素晴らしい。

 こちらがリードできたのは、ラジオセンター2Fの真空管ラジオ屋さん(こちらは「ブラタモリ」にも登場)にパーツ屋さん、無線機屋さんあたり(いちおう自分の無線機も持参した)。6WC5という真空管やクリスタルイヤホーンの解説をして、店頭にあった電鍵でCQやSOSのモールス符号を叩いたりと、オヤジのアキバマニアがやりそうなパフォーマンスを展開したり。

アキバ生まれの猫 そうそう、ラジオセンターでは、とんだハプニングも。撮影の前に事務所に挨拶に出向いたら、何やら取り込んでいるではないか。なんと、野良猫がラジオセンターの天井を這っている配管の上で子どもを産んだのだそうで、子猫が5匹ほど段ボールに入れられていた。可愛らしいアキバ生まれの子猫をデジカメで撮影したのだが、残念なことにピンボケ。こんな写真でお許しあれ(写真はクリックで拡大)。

 先に写真撮影をすませて、三才ブックスの会議室に移動し、ここで対談を収録。これがすんだ後は、ひとりで秋葉原に戻り、昨日、壊してしまったバッテリー充電器のヒューズを買った。1本20円。「こんな安い値段をつけてるの、うちだけだよ」と店の人が行っていたが、そのとおりかもしれない。山手・京浜東北線のガード下にあるニュー秋葉原センターの中の1軒でありました。

 今日の対談の内容は、4月19日発売の『現代視覚文化研究』に掲載されるとのこと。興味のある方は、ぜひ、お買い上げを。

  

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2010年02月17日

読書:『日本辺境論』(内田樹)

『日本辺境論 (新潮新書)』『日本辺境論 (新潮新書)』(内田樹/新潮社・新潮新書/2009年11月刊/714円)

 ただいまベストセラー街道驀進中の本。戦記小説など書いていると、どうしても太平洋戦争が開始された原因や理由などを知りたくなるのが人情ってものだが、でも、日中戦争のあたりも含めて、なんだかずるするとなし崩しに戦争になってしまった感じで、始まったら始まったで、どうやって決着をつけるのかといったグランドデザインなんてものもない。こんなところが日本に住んでいる日本人でさえわからないのだから、海外の人たちには、もっとわからないのかもしれない。

 それでも日本人は、懲りずに『菊と刀』や『菊とバット』(ン?)、『素晴らしい日本野球』(ン?)なんて日本人論を読み継いで、日本人について理解しようとつとめてきた。

『日本辺境論』も、そんな日本論・日本人論の1冊だが、この本で最も共感したのは、次の文章。

「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。「いいこと」の一覧表を示されなければ学ぶ気が起こらない、報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらないという子どもがいたら、その子どもにおいてはこの「先駆的に知る力」は衰微しているということになります。

 いま大学院で教育工学という分野を専攻していることもあり、「学ぶ力」については絶えず考えているが、まさしく、このとおりだと思う。言葉を変えれば、人間にとって「学ぶ力」は、環境の中で生き抜き、進化するための動因であり、アフォーダンスを感知する本能でもあるのではなかろうか。

 なぜ日本人がマンガをスンナリと理解できるのかも説明されていて、なるほどな……とは思いつつも、でも、このあたりは、やっぱり実験で確認したいよな……と思うのが、教育工学や認知心理学をかじっているマンガ家大学院生のホンネかな。

■参考文献(本気で参考にしないこと)

『菊と刀 (光文社古典新訳文庫)』 『菊とバット〔完全版〕』

『素晴らしい日本野球 (新潮文庫)』(W.C.フラナガン・著/小林信彦・訳/新潮文庫/1987年7月刊)

  

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2010年02月11日

読書:『サはサイエンスのサ』(鹿野司)

『サはサイエンスのサ』『サはサイエンスのサ』(鹿野司/とり・みき〈イラスト〉/早川書房/2010年1月刊/1,575円)

 まずは、この本の「あとがき」から。

『オレは子どもの頃から理科が好きだったんだけど、東京に出てきてから、理系は好きっぽいんだけど、どうも話しづらい人がいるって事に気がついた。なんかどっちが詳しいかを競い合いみたいになっちゃって、ぜんぜん楽しくないのね。それはやっぱり、科学=権威だと思っている人が多いから。ハッ、それは科学的でないねとか人をバカにするために科学っぽさを使う人たちがいるのね。それがホントいやだった。』

 SF系オタクの人たちの中には、この「あとがき」に書かれているとおり、科学知識の競い合いをするような人が多く、せっかくSFに興味を持ちながら、いま一歩踏み込めなかったのは、やはり、自分の知識のなさを笑われるのではないか、という恐怖を抱いていたからだ。

 鹿野さんには、SF作家の豊田有恒さんちのキムチパーティーや、SF作家のパーティーで会っていたけれど、その肩書きが科学ライターだったこともあって、「ヘタなことを言うと、科学的でないね」なんて言われるんじゃないかと、ちょっぴり警戒していたことがある。でも、このあとがきでもわかるとおり、それは大きな誤解だった。

 ぼくが「科学に強い人」に警戒心を抱くようになった最大の理由は、学歴コンプレックスだった。

 子どもの頃から科学が好きで、その興味がとりわけエレクトロニクスに向き、それがアマチュア無線からマイコン、パソコンにもつながった。けれども理系の大学に行ったわけでもなく、無手勝流の独学ですませてきたから、たとえばコンピューターの原理みたいなことになると、基本の基本が理解できていないために、どうしても自信が持てず、辻褄を合わせたり、お茶を濁す状態で過ごしてきた。

 そんなこともあって、たとえばパソコンのトラブルがあってメーカーのサポートに電話したとき、「それは、こちらのせいじゃない。お前が悪いのだ」ということを暗に伝えるときの「再現不能」という常套句を発せられたりすると、すぐにカチンと来た。そして、「お前の会社のパソコンは、二度と買ってやらないぞ」とココロに期すわけである(気が弱いので口に出しては言えない(;_;))。

 そんな「理系の人々」に抵抗感を覚えつつも、でも実は、もっと科学について知りたい、科学的でありたいという欲求は強く、そのグズグズしたアンビバレンツな感情が、ドカンと一気に爆発したのが5年前の54歳のときのこと。早稲田大学人間科学部eスクールというインターネットで学べる通信制大学の存在を知って、「いま、ここまで抱いてきたモヤモヤをここで吹き飛ばしておかないと、死んでも後悔することになる」と思い込み、ついに入学を決めたのだが、学部名に「科学」がついていたことも、eスクールを選ぶきっかけのひとつだった。

「コンピューターも基礎から学び直すぞ~」と思って、そちら関係の科目を受講したら、どちらかというと情報処理資格試験対策みたいなのとか、Webデザインの基礎の基礎みたいなのばかりで、エレクトロニクスとしてのコンピューターについては、理工系で学ぶものだと気づいたときは、あとの祭り。

 ただし、心理学を学ぶために必要な統計学が必修科目で、入学前には「Σ」の意味も忘れている状態だったのに、いつのまにか分散や標準偏差も身近な存在になり、確立の考えも身についてきて、「再現不能」の意味も理解できるようになった。何よりも心理学の知見をベースにした論文を書くにあたっては、実験が不可欠で、当然、その実験は「追試可能」でなければならず、「科学的」の意味も、身をもってわかってきた。結局、ぼくに足りなかったのは、こんな科学の基本中の基本だったのだ。

『ブラジルから来た少年 (ハヤカワ文庫 NV 286)』 eスクールでは、せっかく高い授業料を払うのだからと、高校生の頃には苦手だった生物系の科目にもチャレンジした。バイオテクノロジーにも大きな関連があり、長年、温めているSF小説のネタになればという下心もあって、「発達生物学」や「細胞組織学」「生理学」といった科目まで受講したが、このうち、最初に受講した「発達生物学」で、「発生工学の基礎技術とそれらの応用について記せ」という課題が出たことがある。6,000字前後のレポートだが、このとき書いたのは『バイオ・フィクションに見る生命倫理』というもので、最初に採りあげたのが『ブラジルから来た少年』(アイラ・レヴィン)だった。

『ブラジルから来た少年 [DVD]』『ブラジルから来た少年』はダスティン・ホフマン主演の(ダスティン・ホフマン主演の映画は『マラソンマン』でした。どちらもナチの残党を追う物語で、同時期に公開され、しかもローレンス・オリヴィエがどちらにも出ていたため、混乱しました)映画にもなっていて、原作を読んだ後に映画館で見たことがある。

 はあ……ここまでが長かったのが、『サはサイエンスのサ』の「第1章 カラダを変えるサイエンス」の冒頭に書かれているのも、「ブラジルから来た少年はクローン羊ドリーの夢を見るか」という文章で、ここにはヒトの発達に影響する遺伝と環境について、実にわかりやすく説明されている。

 ほかにもクローン人間や、いま話題のIPS細胞があり、2章以降では、「科学と宗教」や「宇宙と知性と生命」「省エネルギー」「新エネルギー」などの興味深いトピックが満載。エピソードがどれも面白かったので、電車とバスの移動中に一気読みしてしまったが、大学で学ぶ前に読んでおきたい1冊であった。

 ちなみにいまは、学歴コンプレックスからも脱却できたのか、ティーチングアシスタントとしてレポートの採点をするときに、「このデータでは追試不能」なんて意味のコメントを書き添えている。でも、「上から目線」にはならないよう気を配っているつもりだ。鹿野さんが、くだけた文体を使っているのも、同じような理由によるものらしい。

 次は、子どもが科学に興味を持つような本も書いてください、鹿野さん。


  

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2010年02月10日

読書:『ザ・前座修業―5人の落語家が語る』

『ザ・前座修業―5人の落語家が語る (生活人新書)』『ザ・前座修業―5人の落語家が語る』(稲田和浩・守田梢路/NHK出版・生活人新書/2010年1月刊/735円)

 落語ファンなら、ぜひ買って読みたい1冊。柳家小三治、三遊亭円丈、林家正蔵、春風亭昇太、立川志らくの五人の真打が、それぞれの前座時代について語っている。面白かったのは円丈師匠のインタビュー。一般的な落語家の前座修業とは異なり、「(新作)作家の目」で前座修行をとらえ、実践してきたことを語っている。シニカルでクールで理論家で、こんなところが「円丈チルドレン」といわれる新作を得意とする若手や中堅の落語家を引きつけるのかもしれない。
 そして、父・林家三平師匠に弟子入りした林家正蔵師匠の、とりわけ厳しい前座時代の話を読んで、唐突に思い出したのは、父・貴乃花のところに弟子入りした若貴兄弟のことだった。世襲という意味では、歌舞伎や能も厳しい修行をするんだろうけど、落語や相撲の世襲は、より厳しいような印象を受ける。
 昇太師匠が弟子入りいたのは春風亭柳昇師匠。大好きな落語家だったが、あの、ほんわかした落語の人柄そのままの人だったことがわかって、なんだか嬉しかった。

 落語が好きだから買う気になったのだけど、実は、もうひとつ、この本を読んでみたい理由があった。いま大学院で専攻している「インストラクショナルデザイン」という研究領域は、「教育工学」の一分野ではあるが、とりわけ「人に教えることを設計する学問」である。2005年に早稲田大学人間科学部eスクールに入学した直後、同じ名前の専門科目を受講したとき、初めて出た課題が、「自分の身のまわりにある『教え』について、その内容を記せ」いうものだった。
 このとき、「素直にマンガのアシスタント制度などを紹介してもつまらない」と考え、落語関連の本を読んだり、二つ目の落語家さんにインタビューして、「落語家の教育システム」についてまとめたことがある。
 それは、以下のようなレポートだったが、どのような評価だったのかは、いまもって不明。そんなこともあって、『ザ・前座修行』も興味深く読むことになったというわけである。


理想のインストラクションをデザインする
(事前レポート)
「落語家の新弟子教育法」


 はじめに――「落語家」を職業の例に選んだ理由

 私の職業は漫画家であるが、自分の職業についてレポートを書いても、体験から導き出された安易な結論に至る可能性が高く、授業のための事前レポートとしては、学習効果が得られるかどうか疑問が残る。そこで今回は、多少の知見はあるが、実際には経験したことのない職業を題材に選ぶことにした。新たに資料を読み、関係者に取材することで、未体験の世界や業界についての考察が得られる機会にもなると考えたからである。
「インストラクショナル・デザイン(ID)」という言葉からは、どこか「システム的」「効率的」といったニュアンスが感じられるが、今回は、あえて、そのイメージとは対極に位置するような、古めかしい職業を選ぶことにした。その職業は「落語家」であり、設計するのは、効率のよい新弟子育成法である。
 落語をはじめとする古典芸能の世界では、現在でも徒弟制度が残っており、かつ、師匠が弟子に対面しながら芸を教える方法をとっている。このような世界でも、IDが有効なのか。そんなことを検証してみたくて、意図的に、古い体質を持つ世界を題材に選んでみた。
 なお、前提となる取材を記録した部分は、意図的に口述筆記のスタイルをとることにした。これは、アメリカで個人の歴史を記録するために盛んにおこなわれているオーラル・ヒストリー(個人の歴史を学生、研究者、ジャーナリストなどが聞き取り、文章にしていくもの)のスタイルを意図したもので、落語家という特殊な職業と、その訓練の内容について、よりニュアンスを強く伝えたいという意図からである。
「語り手」は、稲穂亭えび茶(いなほてい・えびちゃ)という架空の落語家とした。芸歴40年のベテランで、当然、落語団体のなかでも重鎮のうちに入る落語家という設定である。それでは、ここから入門してきた弟子の育成法について、稲穂師匠の「語り」を聞き、そのうえで、新たな弟子の育成法を考えてみることにしたい。

 1.落語家の階級制度

 このたび、新弟子の育成法を紹介しろってことで、ご指名を受けた稲穂亭えび茶と申します。以後、お見知りおきくださるようお願いいたします。
 落語家が、どうやって弟子を仕込むかって話をする前に、落語という特殊な世界のことを、ちょいと説明させてください。そっちが理解されてないと、弟子の鍛え方もわかってもらえないことになりますので。なんせ、まっとうな方々の目から見れば、非常識で理不尽なことばっかりしますから。
 まず落語家ってのは、完全な階級社会で、下から「見習い」「前座」「二ツ目」「真打」の4つの階級に分かれています。それに加えて、それぞれの階級の中に、厳然とした年功序列がある。年功序列ったって、ただ年齢の順番になってるわけじゃない。弟子入りした順番が序列の基礎になっているんです。
 たとえば大卒の22歳で入門しても、先に高卒の18歳で入門していた弟子がいると、そっちがアニさんになってしまう。上の階級、上の序列の人には絶対服従ってのも、落語家の世界の決まりです。いくら民主主義の時代だからって、落語には歴史と伝統があるわけですから、こればっかりは変えるわけにはいきません。
 師匠やアニさんが、白いものを黒だといったら、その言葉に従う。まかりまちがっても「違います」なんていってはいけない。上に対して楯突けないってところは、昔の軍隊と同じなんです。
 こんな理不尽や不合理がまかりとおる世界ですから、なんですか、そのインストなんとかデザイン……へ、インストラクショナル・デザインですか。まあ、よくわからないけど、その合理精神のかたまりみたいなものとは、相容れる道理がないってことですね。
 そいつを証明するために、ここで落語家になる道筋を少し詳しく紹介いたしましょう。

 2.落語家への道程

 落語家になるには、まず、好きな師匠のところに弟子入りしなくちゃいけません。弟子入りして「見習い」になると、この間は、師匠の身の回りの世話から師匠の家の食事、掃除、洗濯、家事全般をやります。師匠のお供で衣装の入った鞄を抱えて寄席に通ったりもする。寄席に行っても、何をするってわけじゃない。幕の横で聞き耳立てて、先輩や師匠連の落語を聴くだけ。暇があれば着物の畳み方、太鼓の叩き方を練習します。
 一定期間が過ぎると「前座」になれる。これを「年が明ける」とか「年季が明ける」といいます。「前座」は寄席に通って、楽屋で師匠たちにお茶を出したり、高座から降りてきた師匠や先輩落語家の着物を畳んだり。高座の座布団をひっくり返すのも前座の役目です。見習い期間中に習ったことを、寄席の楽屋で実践するのが前座の仕事といってもいいでしょうね。
 そのあとに二ツ目、真打と昇進していくわけですが、それぞれに要する期間は、こんな感じでしょうか。

 (あ)見習い(2年から3年)
 (い)前座(5年前後)
 (う)二ツ目(10~15年)
 (え)真打(死ぬまで)

 見習いの間は雑用ばっかでつらいんですが、最低限の衣食住の面倒は師匠が見てくれます。ところが前座になると、自分で稼がなけりゃいけなくなる。もちろん、そう簡単に仕事があるわけじゃない。うまい飯や酒にありつきたくて、ヨイショやタカリがうまくなるのが、前座の時代です。これは生きる知恵みたいなもんですな。
 二ツ目になると、羽織、袴の着用が許されます。個人で勉強会なんてものを開いてもいい。寄席の出番も増えてきます。
「真打」は死ぬまでですかって? そのとおりです。サラリーマンと違って定年もなければ、スポーツ選手と違って引退もない。よぼよぼの爺さまになっても、弟子に背負ってもらってでも、高座に上がるってえ落語家もいます。これくらいになると、お客様の方も、その落語家が座布団の上に鎮座ましましているだけで、ありがたやーなんていって、伏し拝んだりする。浅草の観音様かお釈迦様か、はたまた世界遺産か、みたいになっちまうってワケで、はい。
 そうなんです。落語家ってのは、一生ものの仕事なんです。たいていの落語家は死ぬまで落語家でいようって料簡でいますね。それほど落語家ってのは、儲かりゃしないが、やりがいがあるってことなんです。
 そうそう、いま「料簡」という言葉をつかいましたが、落語の世界で師匠が弟子に第一に教えようとするのが、この「料簡」です。
「料簡」という言葉を辞書で引くと、「推しはかり考えて、より分けること。考察して検討すること」「考えをめぐらして判断すること」なんて意味が出てきます。ほかに「狙い」「たくらみ」「くわだて」なんて意味もありますが、落語の世界では、もう少し広い意味で使われています。どんな意味かってえと、つまり「生きざま」「生きかた」ってなことでしょうか。もっと極端にいえば、ふつうの人間だったのが、落語家ってえ別の人種に生まれ変わるといってもいい。とおりいっぺんの仕事や職業じゃない――ってえことをご理解いただきたいんでございます、はい。

 3.新弟子教育法――落語家の「料簡」を教える

 落語ってものが、この世に生まれ落ちてから300年が経っているそうです。その間に多少の変化はあったでしょうが、基本的なことは変わっちゃいない。弟子の躾け方についても、100年以上もの経験がありますから、その間に、煮詰められ、鍛えられて、いまじゃ完成の域にあるといっていい。それを無視して、いまさらシステムがどうのといわれても、こちとら頭が痛くなるだけですから。
 弟子の育て方にしても、先達がやってきたことを踏襲してるだけってのが、本当のところです。
 新しく入ってきた弟子に最初にすることは、まず第一に、躾けなんです、躾け。人間扱いなんかしてません。犬や猫と一緒です。弟子がしくじりをやれば、師匠が怒って扇子を投げる、湯飲み茶碗を投げる、お膳を投げる、包丁……までは投げませんがね。
 弟子は、見習いの間、師匠の身の回りの雑用をやるわけですが、たとえば弟子が煎れてくれたお茶が熱いのぬるいのと難癖をつける。陽気が良くて汗ばむようなら、お茶は少しぬるめに。薬の袋がお膳に出ているときは、お茶じゃなくて白湯にする。こんなことは最初っから教えてもらうわけじゃありません。何も教えられてないから、最初は必ずしくじって怒られる。
 しかも最初は、なんで怒られているのかがわからない。それでも、「こんなことくらいわからねえのか、このバカ!」と怒鳴られる。理由もわかんないまま怒られるなんて、こんな理不尽なことはありません。これで嫌んなって辞めちまうのもいる。でも、それはそれでしかたがない。これは、その弟子が、本気で落語家になりたいのかどうかを試すテストでもあるからです。
 そもそも落語家になりたいなんてのは、子どもの頃からお喋りで、学校や町内で冗談を言っては友だちやら近所の人を笑わせてばかりいて、人を笑わせること、自分をネタに笑われることが快感になっちまったようなヤツばっかしなんです。
 落語家になれば50人、100人という人を笑かすことができる。寄席で落語家が、大勢のお客を自在に操って、どっと笑わせたり、ときには人情噺でしんみりさせたり……。落語好きの若いのが、こんなのを見ていたら、自分もやってみてえ……と思うのは自然の摂理ってもんでしょう。このあたしだってそうだったんですから。
 いつか二ツ目、真打になって、寄席の高座の真ん中に座り、お客さんをドッと笑わせてみたい。そんな夢があるからこそ、酷な修行にも耐えられるってえものなんです。
 最初は、なんで怒られてるのかわからない。師匠にゃ怖くて訊けない。兄弟子に訊いても教えちゃくれない。自分で考えるしかないんです。で、考えに考え抜いて、どうしてもわからなくなったら、師匠や兄弟子に泣きつく。そこで、それは、これこれこうだからって理由(わけ)を教えてくれる。へ? 最初は自分の頭で考えろってのを、早稲田大学じゃ早稲田魂ってんですかい。じゃ、高等学問の学問も落語の修行も、たいした違いはないのかもしれませんね。
 それはさておき、師匠が弟子につらく当たるのだって、何も弟子が憎いからじゃない。そういうことは、おかみさんだとか、ときには兄弟子なんかが師匠の真意をフォローしてくれる。低下した「やる気」を、よいしょと引き戻してくれるってわけですね。
 もちろん師匠のあたしだって、ちゃんと弟子の顔色は見てる。弟子がふさぎ込んでたら、これでどっか遊びにでもいって、パーッと憂さを晴らしてこい、なんていって小遣いを持たせてやったり……なんてこともあるわけです。そして、帰ってきたら、また無理難題を吹っかけるわけでして。
 弟子ってのは、たとえば師匠が理不尽なことをいっても、その顔色を読んで、何を言い出すかわかるようにならなくちゃいけないんです。師匠のそばにベッタリくっついて、身の回りの世話をしているうちに、師匠の身体の傾け具合、目の動きだけで、次に何を言い出すかが読めてくる。こんな先読み、気配りが、実は落語家にとっては必須の能力なんです。
 ええ、そうなんです。落語って芸は、基本的に、いまの言葉で言うとライブです。生身のお客さんの前で演じる芸で、それこそ季節や天気によってネタを変えるのは当たり前。寄席の高座に上がって、ああ、今日は観光バスの団体さんが多いな、と思ったら、素人衆にもわかりやすい噺をやる。通のお客さんが多そうだったら、じっくり聴かせる噺にする。落語がはじまってからでも、たとえばマクラを振って反応を見て、その笑いの具合で予定していたネタを変えるときもある。落語家には、そんな臨機応変さが必要なんです。
 ぼんやり生きていたら、場の空気を一瞬にして察するなんてことはできっこありません。落語家は、一見、ヘラヘラしてバカそうに見えますが、実は気配りが羽織袴つけて歩いているようなもの。その気配りを身につけるのが、見習いの時代ってわけなんです。
 こいつは何とかつづきそうだと確信が持てたら、初めて落語を教えます。もちろん最初っからむずかしい話じゃない。「寿限無」だの「時そば」だのって短い噺を教えます。
 ちょっと前ならテープレコーダー、近頃ならビデオからデジタルレコーダーとかいうものまで、便利な道具が揃ってますから、要領のいいのは、すぐそういうものを使いたがる。まあ、落語家の中には、機械ものが好きな師匠もおりますから、そんな人は、時代の波に合わせて、機械を使ってもいいんだよ、なんてことを弟子に言うかもしれない。
 でも、あたしんとこはダメ。せいぜい速記本に目を通すのくらいですかね、許すのは。それは、稽古を真剣勝負にしたいから。録音しといて、あとで聴き直せばいいや、なんてのは、それこそ考えが甘すぎる。
 稽古のときは、師匠のあたしと弟子が向かい合って、まず、あたしが一席演じてみせます。ふつう、「三遍(さんべん)稽古」といって、同じ噺を3回演じてみせる。それで憶えられなけりゃ落語家失格です。この先、何十もの噺を憶えていかなくちゃいけないんだから。
 二ツ目くらいになると、長い噺をやるようにもなる。そんなときは、長い噺を前中後の3つに分けて、それぞれで、やはり三遍稽古をやりますが、それはさておき……。
 見習いの弟子は、1回、師匠の見本を聴いたら、必死に暗記して、それを自分の部屋やら厠やらで、何度も何度も暗誦しては、つっかえないで喋れるようになるまで練習する。
 その出来具合を師匠や兄弟子の前で披露して、まあいいだろうってなことになったら、ようやく寄席デビューです。最初っからうまく喋れるわけがない。初めての高座の前には、「後ろの客席まで聞こえるように、とにかくでかい声で喋ってこい」なんてハッパをかけて送り出すわけです。
 こうして寄席デビューを飾れば、年季明けもまもなく。見習い期間も終わり、ひとり立ちの季節になるわけです。もちろん落語家ってのは一生ものの仕事ですから、稽古も一生ものなんです。もちろんあたしだって、毎日の稽古は欠かしちゃおりませんです、はい。(インタビュー了)

 おわりに――インストラクショナル・デザインの導入を断念

 落語の修行が、いかに不合理で理不尽なものかは、すでに周知の事実である。とりわけ新弟子時代、見習いとして師匠の身の回りの世話をしているときが、いちばん右往左往する時期であることも知られている。
 修行の方法を工夫すれば、新しい噺をより効率的に憶えたり、もっと短期間のうちに前座、二ツ目とステップアップできるのではないか――と考えたのだが、それは大きな間違いであった。
 お花やお茶のお稽古とは異なり、落語の修行はプロになるためのものである。お免状をいただけば、弟子を取って生活できるという芸事ではない。絶えずお客の注目を浴び、厳しい批評に耐えなければならないのだ。
 しかも落語家は、寝ているときでも死んだあとでも落語家である。つまり、落語家とは、職業や仕事を超越した生きざまそのものなのではなかろうか。
 落語家になるための弟子教育法も、一見、旧態依然とした非合理なものにみえるが、300年の歴史の中で煮詰められ、洗練された合理的なシステムとして、完成の域に達していたことに、あらためて気づかされた。
 そもそも、落語家志望者のほとんどは、名人と呼ばれた大落語家を目標に選んでいる。ゴールは遠く、そして、あくまでも気高いのだが、これが、高いモラルを維持しているといっていい。落語家の世界では、弟子の「やる気」や「動機づけ」を心配する必要はない。もしもやる気を失ったら、そのときは落語家を廃業するまでの話だからである。
 とはいえ、スモールステップともいえる通過点としてのゴールも用意されている。それが「見習い」「前座」「二ツ目」「真打」という階級制度である。現在の制度では、いちど真打になれば、当人が辞退しない限り、いつまでも真打でいられることになっている。おかげで落語協会だけでも200人以上の真打がいて、二ツ目よりも人数が多い。そのため真打になったとたん、モラル低下を起こす落語家も多いというが、ここでは、そのことには触れず、新弟子時代のことを中心とした。
 落語の世界にIDの概念を導入していくとすれば、師匠の側がシステムの概念を理解し、弟子育成法に採用する必要がある。だが、システムの概念を弟子の教育――そう、初期の段階は、まさに「人間教育」である――に導入した場合、師弟関係がドライになる可能性もある。
 それが落語という古典芸能の維持や発展に不可欠なのか、私には結論が出せず、今回は、IDからの切り口による新しい落語家育成法のカリキュラム作りを断念した。無理にカリキュラムを作成してもよいのだが、それではきれい事を並べたウソになりそうだからである。
 落語に限らず、ほかにも数ある芸事、技能の徒弟制度の中にIDを導入していくとしたら、合理性や効率性という切り口ではなく、理念や理想、モラルアップに効果のある方法を模索する必要があるのではないか。「教育工学」に「教育学」的アプローチを導入していくものだが、おそらく現在のIDは、そのような切り口からの導入も可能なはずであろう。
 今回は、長い歴史によって築かれた厚い壁に、あっさり跳ね返されたような印象が残ることになった。まさに、いまだ力およばずである。今後さらにIDの世界を学習することによって、新しい時代の徒弟制度のありかたを考察し、できうることなら、落語家教育のID化に挑戦してみたいと考えている。

参考資料:
『落語入門百科』(相羽秋夫、弘文出版)、『落語家』(立川志の輔、実業之日本社)、『落語ワンダーランド』(ぴあ)、『全身落語家読本』(立川志らく/新潮選書)ほか多数。
参考URL:
「古今亭菊之丞インタビュー」
(http://homepage3.nifty.com/kejokoku/wagei/kikunojo/kikunojo_1.htm)
 インタビュー:鈴々舎わか馬(新弟子時代の様子、稽古の方法などを直接取材)。


 このレポートの内容は、もちろんフィクションであるが、『ザ・前座修行』を読んでみると、修行の内容については、大きな間違いはなかったようだ。

(注意:このレポートは、「レポートの書き方」も知らない段階で書いたものなので、早稲田大学人間科学部eスクールなどで「インストラクショナルデザイン」を学ぶよい子の皆さんは、この文章を真似たりしないこと)

  

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2010年02月06日

読書:『キャラクターとは何か』(小田切博)

キャラクターとは何か (ちくま新書)『キャラクターとは何か』(小田切博/ちくま新書/2010年1月刊/735円)
 キャラクターについては、これまでもいろいろ書かれてきたが、これまでバラバラに語られてきたキャラクターのビジネス・文化・歴史を、まとめて概観したのが本書。

 第1章 キャラクタービジネスの現代史
 第2章 キャラクタービジネスという問題
 第3章 キャラクターの起源と構造
 第4章 日本型キャラクタービジネス

 このような4章からの構成になっているが、ぼくの場合、この本で「一九七一年の『仮面ライダー』、『帰ってきたウルトラマン』での第二次怪獣/怪人ブーム」と書かれている『仮面ライダー』でデビューしたマンガ家であり、「怪人ブーム」の総本山ともいう石森プロの出身であり、このブームに火をつけた「テレビマガジン」の創刊メンバーでもありという立場でもある。
 また、やはり本書に紹介されている「ミニ四駆」に先駆けるラジコン、テレビゲーム、マイコン、チョロQといった「ホビー」をコンテンツにしたマンガの当事者でもあって(創始者であるともチョッピリ自負している(笑))、さらに企画や原作を担当した作品がアニメになった関係で、マーチャンダイズビジネスにも(金銭が絡む生臭い意味も含めて)直接的に関わった経験を持つ。
戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌
『戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌』(小田切博/NTT出版/2007年3月刊/2,625円)

 そんな当事者的な立場から見ると、1・2・4章については、ちょっと物足りなく感じる(隔靴掻痒という観じをわかっていただけるでしょうか)が、これも読者としては想定外の位置にいる身だからだろう。そのような意味で最も興味深く読んだのは、やはり「第3章 キャラクターの起源と構造」だった。キャラクターの歴史を概観した章だが、あまりにもあっさりしているのが、ちょっと残念。『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』の著者なら、この章だけで1冊の本が書けるはずで、もし書かれたら、ぜひ読んでみたい。
ポケモン・ストーリー ぼくの場合は、きわめて特殊な立場にあるので、こんな感想になっているが、これからキャラクターについて知りたい人にとっては、キャラクタービジネスとキャラクター文化をまとめて概観できる優れた入門書となるはずだ。
 ここを起点に、たとえばポケモンなら『ポケモン・ストーリー』(畠山けんじ・久保雅一/2000年12月刊/日経BP社〈角川文庫版もあり〉)のような「ノンフィクション」を読んだりしてみるのもいいかもしれない……と思ったら、この本、すでに絶版だ。いい本なのに(泣)。

  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 16:12 Comments(0)TrackBack(0)本/雑誌