2008年07月14日

■『仮面ライダー青春譜』第2回

 第1章 巨匠との遭遇


●ニセ石森章太郎出現

「きみが菅谷クン……?」
 改札口を出たとたん、学生服姿の男子高校生が声をかけてきた。
 学生服の襟元からは、派手なオレンジ色のタートルネックの襟がのぞき、整髪料でテカテカと光り固められた髪には、しっかりと櫛目がとおっている。いかにも都会の高校生――といったキザな姿で、静岡の田舎から出てきたばかりのぼくは、一瞬たじろいだ。
「は、はい……」
 うろたえながらもなんとか返事をすると、前に立つ高校生が、笑顔になって自己紹介した。
「ミュータントプロの菅野です」
「ど、どうも。菅谷です」
 ペコリとお辞儀したぼくも、やはり学生服に身を包んでいた。
 昭和四十二(一九六七)年三月二十五日の正午前。高校一年の三学期が終わり、春休みに入った直後のことだった。
 場所は、東京都練馬区にある西武池袋線の桜台駅。この駅の北口改札口前で、ぼくが待ち合わせをしていた男子高校生は、〈ミュータントプロ〉というマンガ研究会の会長だった。
 彼の名前は、菅野誠{かんのまこと}。年齢は、ぼくと同じ十六歳。いくぶん大人びて見えたのは、隙のない服装とヘアスタイルのせいにちがいない。
 ぼくの学生服はイトコのおさがりで、情けないほどくたびれていた。中学まで長髪禁止だった関係で、髪も高校一年の終わりになってから伸ばしはじめたばかり。ボサボサの頭にヨレヨレの学生服ときては、田舎から出てきたばかりなのが、誰の目にもバレバレだったことだろう。
 東京に来るのは、小学六年生の修学旅行以来のことだった。前日のうちに上京したぼくは、亀戸の叔父の家で一泊。今朝になって国鉄総武線~地下鉄丸の内線~西武池袋線と乗り継ぎ、待ち合わせの桜台駅にやってきたところだった。
 途中、地下鉄丸の内線の電車が後楽園あたりで地上に出たときは、ちがう路線に乗ってしまったのかと思ってパニックになりかけた。地下鉄というものは、全路線が地下を走っているものと思っていたからである。
 この日ぼくは、初対面となるマンガ研究会の仲間に、会の名誉会長である石森章太郎先生と、名誉副会長の松本零士、久松文雄両先生のお宅に案内してもらうことになっていた。持参した自作のマンガを先生方に見てもらうためだ。脇に抱えたスケッチブックには、原稿のほかに、サインをもらうための色紙も忍ばせていた。
 菅野も同人誌の原稿を挟んだスケッチブックを抱えていた。スケッチブックを持って歩くのは、この頃の典型的なマンガ少年のスタイルでもあった。
 石森先生のお宅は、住宅街の隙間をうねるように走る狭い道をたどった先にあった。
 青々とした芝生が茂る庭には、小さいながらもプールまであった。台風が来るたびに窓を釘で打ちつけるようなボロ家に住んでいたぼくの目には、新築まもない石ノ森邸は、ハリウッドスターが住む白亜の豪邸のように、ピカピカと光り輝いて見えた。
 先生は、まだおやすみで、庭先で奥さんが、長男の丈君をあやしていた。現在、俳優として活躍する丈君は、まだ一歳だった。
 そこに遅れて〈ミュータントプロ〉のメンバー三人が到着した。副会長の細井雄二、田村仁、近藤雅人の三人である。
 菅野誠も含めた四人は、三鷹市内の中学の同級生だった。ぼくも影響を受けた石森章太郎先生の『マンガ家入門』に感化され、マンガ研究会「ミュータントプロ」を結成したのが一年前のこと。肉筆回覧誌「墨汁三滴」も、すでに三号まで発行しているという。
「墨汁三滴」という会誌の名前は、石森章太郎先生が高校生のときに結成した〈東日本漫画研究会〉の肉筆回覧誌「墨汁一滴」の名前を受け継いだものだった。
 石森先生たちの〈東日本漫画研究会〉には、赤塚不二夫、高井研一郎、横田とくお氏などが参加し、「墨汁一滴」にも原稿を寄せていた。「墨汁一滴」というタイトルは、正岡子規の随筆集にあやかったものだ。
〈ミュータントプロ〉の会誌が「墨汁二滴」にならなかったのは、先に結成されていた〈東日本漫画研究会・女子部〉が、「墨汁二滴」の名前をつけた肉筆回覧誌を発行していたからである。
「墨汁二滴」は、西谷祥子、志賀公江、神奈幸子といった人気少女マンガ家を輩出した同人誌としても知られていた。志賀、神奈の両氏は、「墨汁三滴」の名誉会員でもあった。
 庭先にいた奥さんの話によると、石森先生は、三時間ほど前にベッドに入ったばかりで、あと一時間ほどしないと起きてこないという。それまでのあいだ、庭の草むしりをしてくれないかと奥さんが菅野たちに訊ねた。
 菅野をはじめとする〈ミュータントプロ〉のメンバーは、中学生の頃から石ノ森先生の仕事場に出入りし、全員が奥さんとも顔なじみだった。とりわけ菅野は、奥さんにも「菅{かん}ちゃん」とニックネームで呼ばれていた。
 ぼくもすることがないので、菅野たちと一緒に芝生のあいだから顔を出している雑草をむしり取ることにした。
 三十分ほどで草取りを終えると、奥さんがお礼にといって、昼食をご馳走してくれることになった。そば屋のメニューを手渡され、なんでも好きなものを頼んでいいという。
 ところが東京のそば屋のメニューときたら、カツ丼や天丼、親子丼といったドンブリものから、天ぷらにカレー、キツネにタヌキ、盛りに、かけに、ざる……と実に多彩。よく考えたら、それまでぼくは、ひとりでそば屋に入った経験がなかった。
 メニューには、ドンブリもののほかに、そばとうどんがある。天ぷらやカレー、キツネにタヌキあたりは、どんなものか知識があったが、どう考えてもわからないメニューがひとつあった。〈おかめうどん〉である。ぼくの田舎では、こんな名前のうどんを見たことがない。そこでぼくは好奇心を発揮し、このおかめうどんを注文することにした。
 石ノ森先生の奥さんは、
「若いんだから、もっとボリュームのあるカツ丼か親子丼にでもすれば?」
 とおっしゃってくれたのだが、どうしても、おかめうどんの正体を確かめてみたかったのだ。
 そば屋から届いたおかめうどんは、カマボコや伊達巻き玉子が載っているだけで、どこがおかめなのか、さっぱりわからなかった。かまぼこや玉子焼きやシッポクで、おかめの顔が形づくられていることを知ったのは、ずっとあとになってからのことだ。
 庭に面した縁側で食事をご馳走になったあと、ぼくたちは先生の仕事部屋に移動した。菅野が勝手知ったる様子で案内してくれたのだ。
 仕事部屋の隅に置かれたソファに座って先生の起きてくるのを待っていると、先に三人ほどのアシスタントが仕事部屋に入ってきた。アシスタントたちは、奥にある仮眠室でやすんでいたらしい。
 アシスタントたちは、生あくびを噛み殺しながら、すぐに机の上に置かれていた原稿を手にとった。原稿には、人物にだけペンが入っている。人物のペンは、石森先生が入れたものだ。
 アシスタントたちは、鉛筆で背景の下絵を描いてはペンを入れ、吸い取り紙がわりのトイレットペーパーを原稿の上に転がしていく。墨汁が乾く時間を短縮させるためらしい。アシスタントたちが、わずかの時間を惜しんでいる様子が、見学しているぼくにもビンビンと伝わってきた。
 そんな光景を見ているうちに、いつのまにか全身が熱くなっていた。生まれて初めてプロのマンガ家の仕事場を訪問し、アシスタントの仕事ぶりを目の当たりにしているのだ。その興奮と緊張に、身体が対応しきれていなかったらしい。
 ――もしかすると将来、ぼくもここで仕事することになるのかもしれない……。
 そんな夢想に酔いながらアシスタントの手元を見つめていると、突然、玄関のチャイムが鳴った。
 先生の机に一番ちかい席にいたアシスタントが、玄関に立っていく。
「サインください」
 という元気な男の子の声が、すぐに玄関から聞こえきた。近所の小学生がサインをもらいにきたらしい。
「ちょっと待ってね」
 子供から色紙を預かってきたアシスタントは、自分の席にもどると、マジックインキを手にとった。
 ――え……?
 ぼくは目を丸くした。それも当然だろう。アシスタントが、ぼくたちの見ている前で、下絵もなしにサラサラと『サイボーグ009』の絵を描きあげ、さらに〈石森章太郎〉というサインまで入れてしまったからである。
 アシスタントは、その色紙を持って玄関に立っていった。
「はい」
 アシスタントの声が聞こえ、男の子の嬉しそうな感謝の言葉が聞こえてきた。
 子供が帰るとアシスタントは自分の席にもどり、何ごともなかったかのように仕事を再開した。
 ――これがプロのマンガ家の現実なのか……!
 唖然としているぼくに、横から菅野が声をかけてきた。
「あれがチーフの永井さんだよ」
 いま『サイボーグ009』の色紙を描いて子供に渡したチーフアシスタントは、ほかのアシスタントよりも若そうに見えた。しかし、仕事の手は速く、さっさ、さっさと原稿を仕上げていく。しかも楽しげに背景のペン入れを進めていた。
 チーフアシスタントのフルネームは、永井清。この一年ほど後に、『目明かしポリ吉』というギャグマンガでデビューする。ペンネームは、永井豪――となっていた。

「おっ、来てたのか」
 石森章太郎先生が仕事場に姿を見せたのは、正午を少しまわった時刻だった。
「おはようございます」
 菅野や細井たちは、すっかり顔なじみになっているようで、気軽に挨拶をかわしている。緊張しているのはぼくだけだった。
 石森先生は、後年、パーマをかけた長髪がトレードマークになったが、この頃は、スポーツ刈りにちかい短髪だった。
「新しい会員の菅谷君です」
 菅野に紹介され、あわててお辞儀したぼくは、スケッチブックに挟んできた色紙を差し出した。しかも二枚もだ。
「サ、サインしてください」
 口のなかがカラカラに乾いているために、声がうまく出てこない。
「ちょっと待ってな」
『ジュン』色紙(クリックすると拡大します)。 石森先生は、色紙を受け取ると、仕事机に座り、墨汁をつけた筆でサラサラと『ジュン』の主人公と『気ンなるあいつ★』のヒロインの絵を描いてくれた。
 さらに持参した原稿を批評してもらおうとすると、これからネームを入れに桜台駅ちかくの喫茶店まで出かけるので、そこで見てくれるという。ぼくたちは、石森先生のあとについて桜台駅までもどることになった。
 石森先生が案内してくれたのは、桜台駅北口にあった小さな喫茶店だった。後年、専用席が設けられたラタンとは別の喫茶店である。
 ぼくたち五人は、先生とは別のテーブルについた。なんでも好きなものを注文するようにという先生の言葉に甘え、ぼくはオレンジジュースを注文した。緊張で喉が渇ききっていたからだ。
「じゃ、原稿を見せてごらん」
 先生が、ぼくを向かいの席に呼んでくれた。
「お願いします」
 ぼくは、カチンカチンに硬くなりながら、スケッチブックのあいだから取り出したマンガの原稿を取り出した。
 マンガのタイトルは「シークレット・エィジェントマン」。題名どおりのスパイものだった。直前の冬休みに、〈ミュータントプロ〉の新しい会誌用に描いたものだったが、その会誌は発行されずじまいとなり、宙に浮いてしまった原稿だった。
「ペンの線が汚いなあ……」
 石森先生は、パラリと原稿を見るなり、眉間にシワを寄せていった。
 自作マンガのペンの線が汚いことには、すでに気づいていた。
 といっても、その事実に気づいたのは、つい先ほど、石森先生の仕事部屋で、アシスタントが背景を描いている原稿を見たときのことだ。
 生まれて初めてマンガのナマ原稿を見たぼくは、まさしく度肝を抜かれていた。
 ナマ原稿に引かれた線は、拡大サイズで描かれているにもかかわらず、細くきれいで、そして繊細だったからだ。少年雑誌のザラ紙に印刷された線ばかり見ていたせいで、マンガの原稿が、こんなにもきれいな線で描かれているとは、想像さえもしていなかったのだ。
「ペンは少し使い古したくらいの方が使いやすい」
 そんなことが書かれたマンガ入門書も多かった。ぼくは、それを真に受け、わざわざ使い古しのペンをもらってきては、マンガを描くのに使っていたのだ。
 古いペンの仕入れ先は市役所だった。近所に住む市役所勤めの人に、使い古しのペンが欲しいと頼んでみると、山のように持ってきてくれたのだ。ボールペンもまだ普及していなかった頃で、役所の申請書類は、すべて、つけペンと青インクで書かれていた。
 市役所でも、使い古しのペン先が大量に出るため、捨て場所に困っていたという。そんなときに、ぼくの申し出があったため、喜んで持ってきてくれたものらしい。
 とはいえ使い古しのペン先は、先端がすり減り、変なクセがついていた。
 貸本劇画誌で得た情報によれば、平田弘史氏は、市販のペン先の先端をペンチで切断し、グラインダーと砥石で整形したオリジナルのペン先を使っているという。そこでぼくも平田氏のマネをして、古いペン先を砥石で研いで使っていた。
 もともとすり減ったペン先だから、引かれる線も当然のごとく太くなる。ザラ紙に印刷され、線が滲んだ状態のマンガしか見たことのないぼくは、ナマ原稿も同じような汚い線で描かれているものと思い込んでいた。
「菅野。お前の原稿を見せてやったら?」
 石森先生が、菅野のスケッチブックに視線を向けながらいった。そこに原稿が挟まっていることをお見とおしだったらしい。
「はい」
 菅野がニヤニヤと笑いながら、スケッチブックのあいだに挟まれていた原稿を取り出した。
 菅野の原稿を見て、ぼくはショックを受けた。模造紙の原稿用紙に描かれていたのは、空母から発艦するジェット機の絵だった。ぼくもメカ好きだったので、その機体がグラマンA6「イントルーダー」だということは、すぐにわかった。当時、泥沼状態になっていたベトナム戦争でも使われていた二人乗りのジェット攻撃機で、機首には空中給油用のノズルが突き出していた。
 攻撃機の輪郭を描いた曲線は、まるで製図器具を使って引かれたかのようにシャープだった。しかもスピード感を出すための流線までもが、きっちりと整った直線や曲線で描かれていた(菅野が工業専門学校の生徒で、マンガを描くのにドラフターという製図器具や、雲形定規まで活用していたことは、あとになって知った)。
 菅野を知ったのは、半年ちょっと前――一九六六年夏のことだった。「ボーイズライフ」(小学館)という男子向けティーン雑誌の読者欄で、マンガ研究会〈ミュータントプロ〉の会員募集告知を見つけたぼくは、「名誉会長・石森章太郎」の文字に惹かれ、入会審査用のカットを二点描いて会長のところに送付した。その会長というのが、菅野だったのだ。
 送った絵の一点は、旧日本海軍航空隊の局地戦闘機「雷電」。もう一点は、藤子不二雄タッチを真似たギャグマンガのキャラクターを描いたものだった。
 一ヶ月もたたないうちに、送ったカットがもどってきた。同封された手紙には、「テクニックがなっていない。レタリングがヘタ」という酷評が書かれていた。会長の菅野が書いたものだった。
 小学生六年生のときに『マンガのかきかた』(手塚治虫・監修/秋田書店)を読んだのがきっかけで、ペンと墨汁を使ってマンガを描きはじめ、中学三年生のときに遭遇した『マンガ家入門』(石森章太郎/秋田書店)で、マンガ家になろうと決意して以来、ほとんど独学でマンガを描きつづけてきた。
 同じ趣味を持つ友人もいたが、高校生になってもマンガを描いているのは、ぼくだけになっていた。
 ぼくのマンガを見た友人や近所の人たちは、誰もが「うまいなあ」と感心してくれた。おかげで自作マンガのレベルは、かなり高いところにあるのではないかと自負していたのだが、その自負が、菅野の手紙で、あっけなく打ち砕かれてしまったのだ。
 いや、正直に告白すると、この段階では、酷評の手紙を送ってきた菅野のことを「えらそうにして、ナマイキな奴」と思う部分があった。それは菅野の絵を見ていなかったし、プロのナマ原稿も目にしていなかったからである。
〈ミュータントプロ〉には、いちど入会を断られたのだが、その後、補欠のようなかたちで入会を許されたのがきっかけで、この日の上京となったのだった。
 石森先生の仕事場で見たナマ原稿と、菅野の緻密な絵は、それまでの自負や自信が、ただの過信でしかなかったことを思い知らせてくれた。いくらマンガがうまいつもりでいても、所詮は井の中の蛙にすぎなかったのだ。
「描けば描くだけうまくなるから、あきらめずに頑張ンな」
 ぼくの落ち込む様子を察したのか、石森先生は、そういって激励してくれた。そして、石森先生からは、五年後にも同じ言葉をかけられることになるのだが、このとき、そんなことがわかろうはずがない。ぼくたちは、先生のネームの仕事を邪魔をしないよう、早々に喫茶店をあとにした。

  つづく
  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 23:18 Comments(2)TrackBack(0)

2008年07月14日

■『仮面ライダー青春譜』第1回

 これから掲載する文章は、1989年、パソコン通信サービスの「ニフティサーブ」上にあった「本と雑誌フォーラム」に連載し、その後「すがやみつるホームページ」のblogにも掲載したことのある『ぼくのマンガ青春期』(未完)を全面改稿したものです。

 仕事や学業に追われて、何度も完成させようとしながら放置した状態になっていますので、こんどは最後まで書き上げてみたい……という希望的観測を抱いています。

 題名は『仮面ライダー青春譜』と改めさせていただきました。マンガ家を志望し、同人誌やアシスタント、編集者などを経験した後、石森プロに拾われ、石ノ森章太郎先生のもとで『仮面ライダー』でデビューし、独立していくあたりまでを書いていく予定です。

 では、長い連載になりますが、よろしくおつきあいください。




 『仮面ライダー青春譜』

すがやみつる  


 プロローグ

「そろそろ行こうか……」
 永井豪さんが、ぼくたちの顔を見ていった。
「そうだな。じゃ行くとするか」
 桜多吾作さんの返事に合わせるように、ぼくたちは一斉にソファから腰をあげた。
 西武池袋線桜台駅ちかくの喫茶店。そこに集まっていたのは永井豪、桜多吾作、ひおあきら、細井ゆうじ、山田ゴロ、成井紀郎、津原義明、そして、ぼく――すがやみつるの八人。全員が、石ノ森章太郎先生のアシスタント経験者か、石ノ森作品の著作権管理をしていた石森プロの出身者だった。一九九八年二月三日午後のことである。
 喫茶店を出たぼくたちは、西武池袋線のガードに沿って練馬駅の方向に歩いていった。
 こんな顔ぶれで集まるのは珍しいことだった。たまに会えば必ず交わされる軽口も、この日ばかりは出てこない。全員が、重い足を引きずるようにして歩いていた。
 徒歩で向かった先は、桜台駅から十五分ほどのところにある石ノ森章太郎先生の自宅である。石ノ森先生は、六日前の一月二十八日、長い闘病生活の末に、御茶の水の病院で、永い眠りについていた。
 先生の死去のニュースが報道されたのは、二日後の三十日になってからだった。家族だけの密葬にしてほしいという先生の遺志で、葬儀がすむまで亡くなったことが伏せられていたらしい。
 せめて線香くらい手向けさせていただけないものか――元アシスタントと弟子筋のマンガ家がそろって交渉した結果、ご家族の許しが得られ、この日の訪問となったのだった。
 ガードに沿った細い道を進むと、すぐにバス通りに出た。西武池袋線がまだ高架ではなかった頃、踏切があった場所だ。
 踏切の脇には一軒のパチンコ店があり、二階が広い喫茶店になっていた。
 喫茶店の名は「ラタン」。かつて石ノ森先生は、この喫茶店の専用席で、毎日のようにマンガのネームを入れていた。
 専用席ちかくのテーブルには担当編集者がすわり、先生のネームが入るのを待っていた。ネームが一ページ入るたびに、受け取った原稿用紙にトレーシングペーパーを載せ、吹き出しのなかのセリフを写し取っていく。それが編集者の仕事だった。
 踏切の北側には交番があった。『マンガ家入門』を読んだマンガ家志望者や、『サイボーグ009』『ジュン』などのファンが、石ノ森先生宅への道をたずねた交番だ。あまりにも多くの若者が道をたずねるため、石ノ森先生の側で用意した専用地図が壁につるされていたこともあった。
 そんなことを思い出しながらバス通りに沿った歩道を歩き、途中で脇の路地に入る。住宅街を縫うように走る曲がりくねった細い道は、石ノ森先生の自宅までの抜け道にもなっていた。
「このあたりの景色、あまり変わってないなあ……」
 住宅街の裏手に入ると永井さんが、しんみりとした口調でいった。
 石ノ森先生が新宿区弁天町から、ここ桜台に引っ越してきたのは一九六六年のこと。永井さんは、その頃、石ノ森先生のところでチーフアシスタントをつとめていた。
 ぼくが初めて石ノ森先生のお宅に伺ったときに通ったのも、やはり、この道だった。
 一緒に歩いていたのは、いまも横に並んで歩いているひおあきらだった。そう、あれは、忘れもしない三十一年前……一九六七年春のことだった。

 つづく


  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 23:13 Comments(0)TrackBack(0)