2008年07月17日

■『仮面ライダー青春譜』第5回

 第2章 紙の街に生まれて

●初めて買ってもらったマンガは前谷惟光

 ぼくが生まれ育った静岡県富士市は、北に富士山、南に駿河湾を望む温暖な土地で、豊かな地下水を利用した製紙業が盛んな工業地帯でもあった。
 一九六〇年代の終わりには、製紙工場の煙突から排出された甘酸っぱい臭いのする排気ガスが漂っていた。製紙工場から川に流れ出た製紙カスのヘドロが、「 田子の浦ゆ、うち出でて見れば真白にぞ、富士の高嶺に雪は降りける」と「万葉集」にも歌われた田子の浦を埋め尽くしたのも、この頃のことだ。
 一九七一年になると、田子の浦のヘドロから生まれたヘドラという怪獣が、ゴジラと戦った。もちろんこれは東宝映画の話なので、真に受けないように。
 昭和二十五(一九五〇)年生まれのぼくは、幼い頃から絵を描くのが好きで、幼稚園に入る前からマンガ雑誌を見ては、マンガの主人公たちの似顔絵などを描いていたらしい。
「うちの息子は、マンガで字を憶えた」と母がよく近所の人に話していたが、幼稚園以前に読んでいたマンガの記憶は皆無にちかい。かろうじて『あんみつ姫』を読んだ(見た?)ことだけを断片的に憶えている。
 生まれて初めて買ってもらったマンガの本は、いまでもしっかり憶えている。たぶん、ぼくが幼稚園に通っていた頃のことだ。
 場所は、国鉄(当時)身延線の富士宮駅構内(富士宮市は、いまは焼きそばで有名)。待合室の片隅にあった売店(キヨスクの前身)の店先に、二冊のマンガ本がセットになって吊されていて、それを母が買ってくれたのだ。
 二冊のマンガは『火星の八ちゃん』と『ごくらく紳士』。どちらも前谷惟光(まえたに・これみつ)の作品で、ていねいにセロハンで包まれ、リボンまでかけられていた。そして「おみやげ」というシールが貼られていた。
 マンガそのものに興味を抱きはじめたのは、小学校に入ってからだった。
 ぼくが小学校に入学した昭和三十一(一九五六)年頃は、月刊少年マンガ誌が子供たちの娯楽の王様で、本誌の厚さや別冊フロクの数を競う過激な競争がはじまっていた。
「少年」(光文社)、「少年クラブ」「ぼくら」(ともに講談社)、「幼年ブック」「おもしろブック」(ともに集英社)、「冒険王」「漫画王」(ともに秋田書店)、「少年画報」(少年画報社)、「痛快ブック」(芳文社)などが、太平洋戦争終結直後に生まれたベビーブーマー――いわゆる〈団塊の世代〉を読者として獲得するために、しのぎを削り合っていた頃だ。
 この前年に連載がスタートした『鉄人28号』(横山光輝/「少年」連載)が、子供たちのあいだで評判になっていた。富士山麓の工業都市に住むぼくたちのあいだでは、同じ「少年」に連載中の『鉄腕アトム』よりも、圧倒的に人気が高かった。おそらく破壊性、暴力性が、『アトム』に勝っていたからだろう。
 小学一年生のときには、クラスメイトと一緒に、教室のうしろにある黒板に『鉄人27号』や『鉄人28号』の絵を描いては遊んだものだった。このとき一緒に『鉄人28号』の絵を描いていた金森俊昭という同級生は、のちに、ぼくがマンガ家を志望するきっかけをつくることになる。
 小学生時代に読んだ「少年」には、『ナガシマくん』(わちさんぺい)、『ポテト大将』(板井レンタロー)、『ストップ兄ちゃん』(関谷ひさし)といった人気マンガがひしめいていた。
「少年画報」の人気マンガは、『赤胴鈴之助』(武内つなよし)、『まぼろし探偵』(桑田次郎)、『ビリーパック』(河島光広)など。
「冒険王」では、『イガグリくん』(福井英一/ありかわ旭一)や『ジャジャ馬くん』(関谷ひさし)に人気が集まっていた。
『日本プラモデル興亡史―子供たちの昭和史 (文春文庫)』
 マンガを読むのは大好きで、マンガの似顔絵を描くことはあったが、コマを割ったマンガを描くようなことはなく、ただの読者として過ごしていた。
 小学生の頃に夢中になっていたのは、三共の〈ピーナツシリーズ〉という百五十分の一サイズの小さなプラモデルだった。おっと、当時、〈プラモデル〉はマルサンというメーカーの登録商標で、他のメーカーは、別の呼称を使っていたのでした。

●テレビはなくても映画があった

 ぼくが小学生だった昭和三十年代の大きなできごとといえば、やはりテレビの隆盛だろう。
 しかし、昭和三十年代の前半は、テレビはまだまだ高価な電化製品で、近所の子供たちは、自動車修理工場の従業員休憩所に集まっては、『月光仮面』や『七色仮面』を見せてもらっていた。
 小学校も学年が進むにつれて、テレビは加速度的な普及を遂げていくが、わが家にはテレビが入る気配もない。そんな経済的ゆとりは、どこを探してもなかったからだ。
 父が経営していた水道工事会社を倒産させたのは、ぼくが三歳のときだった。父はどこかに姿を消したままで、ぼくは母と二人で暮らしていた。
 父は、たまに帰ってくることもあったが、そのときは必ず泥酔状態だった。玄関に鍵がかかっているとガラス戸を蹴やぶって入ってくるため、鍵もかけられなかった。深夜、遠くから酔っぱらった父の怒鳴り声が聞こえてくると、ぼくは毛布を持って、近所の家に避難した。
 母は、昼間は保険や化粧品の外交、夜は映画館で切符のもぎりと、働きづめに働いていた。それでも生活は苦しかった。
 ぼくにとって運がよかったのは、母が映画館で働いていたことだった。顔パスで映画が見られたからである。日活作品が三本立てで上映される中央劇場という名の映画館で、ぼくは、毎週、土曜日になると、観客席に潜り込んではスクリーンを見つめていた。
 石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、宍戸錠たちが活躍した日活の黄金時代である。ぼくは、気にいった映画があると、平日でもかまわずに、学校の帰りにカバンを持ったまま、映画館に飛び込んだ。
 同年代の子供たちがテレビの『月光仮面』や『怪傑ハリマオ』や『七色仮面』に熱中していた頃、ぼくは映画館のスクリーンを見つめながら、石原裕次郎や小林旭や赤木圭一郎が唄う主題歌を一緒になって口ずさんでいた。
 テレビも一家に一台の時代になりつつあった時代になっても、ぼくの家にはテレビがなかった。テレビなど買える経済状況ではなかったのだ。ぼくの家に中古のモノクロテレビが入るのは、東京オリンピックの翌年のこと。カラーテレビを買った親戚が、不要になったからとゆずってくれたものだった。
 赤木圭一郎がゴーカートの事故で重体になったときは、ローカル紙に掲載された容態を伝える記事を食い入るように読んでは一喜一憂した。赤木圭一郎の死を知ったときは、まるで身内が死んでしまったかようなショックと悲しみに襲われたものだ。
 赤木圭一郎が事故に遭ったときに撮影していたのは『激流に生きる男』という題名の映画だった。かわりに高橋英樹が主演となって、この映画は完成したが、どうしても見る気が起きず、いまに至るまで目にしていない。
 女優のなかで好きだったのが、石原裕次郎主演の文芸作品でヒロインを演じた芦川いずみだった。清楚で可憐で愛くるしくて、こんな人が姉さんにいたらなあ……なんてことを考えながらスクリーンを見つめていたものだ。そんなこともあってか、芦川いずみと結婚した藤竜也が、いまでもあまり好きではない。
 母が勤める映画館の経営者は、隣の富士宮市にも映画館を持っていた。二軒の映画館は、上映時間をずらしただけの同じプログラムを組んでいた。こちらの映画館で上映が終わったフィルムをオートバイで隣町の映画館に運び、あちらで上映の終わったフィルムをこちらの映画館に運んできて上映するのだ。おそらくフィルム代を節約するためだったのだろう。
 ぼくも何度かフィルム運びを手伝ったことがあった。オートバイの後部座席でフィルムケースを抱えては、隣町の映画館との間を一日に何度も往復するのだ。小学生のぼくにとっては、ちょっとした冒険旅行だった。
 一九八九年公開の『ニューシネマ・パラダイス』というイタリア映画をテレビで見たとき、ふいに涙が込みあげて止まらなくなった。隣町の映画館との間でフィルム運びをするシーンが出てきたときのことだ。小学生のときに体験したフィルム運びの体験が、一瞬にして画面のシーンに重なってしまったからだ。
(オートバイによるフィルム運びを担当していたお兄さんは、後に電器店を開業し、ラジオいじりをはじめたぼくに、格安で真空管を提供してくれた)
 映写室が遊び場になっていたのも、『ニューシネマ・パラダイス』と同じだった。映写技師のおじさんとも顔なじみになり、成人映画を映写室の小窓から覗き見させてもらったこともある。もちろん母には内緒だったが、小学生のぼくには、そこで展開されているシーンの意味が、まだ理解できていなかった。
 市内で大映と松竹の作品を上映していた別の映画館が廃業すると、母が勤めていた映画館が、その代替上映をするようになった。日活作品に加え、大映と松竹の作品までもが見られるようになったのだ。
 勝新太郎の『座頭市』や『悪名』、そして市川雷蔵の『忍びの者』や『陸軍中野学校』のシリーズが好きで、同じ映画を何度も見にいった。
 とりわけ『忍びの者』は、学校帰りに劇場に飛び込んでは、七日間連続、計九回も見た。数が合わないのは土曜日と日曜日に二回ずつ見たせいだ。藤村志保の入浴シーンにドギマギしたのも懐かしい。
 土曜日の夜は、ナイトショーという遅い時間の上映があった。終了時刻は午後十一時過ぎ。それから客席の掃除を手伝うのが週末の夜の日課になっていた。
 まだ封が切られていないキャラメルやチョコレートも、よく座席の下に落ちていた。暗がりで落としてあきらめたのだろう。ときどき小銭も落ちていて、これらは掃除を手伝うぼくの余録となった。
 ぼくにはテレビはなくても映画があった。毎週三本ずつの映画が、顔パスで見られるのだ。テレビがないことがさほど気にならなかったのは、こんな貴重な体験をしていたからだろう。しかもタダで映画が見られることで、同級生たちに対しても、ちょっぴり優越感を持つことができた。
 また、テレビを見たければ、いつでも隣家に行って、好きな番組を見ることができた。留守でも鍵のかかっていない裏口から入っていき、勝手にテレビを見ることができた。米や醤油、味噌が足りなくなれば、やはり、勝手に隣家の台所から借りてくる。借りたことは事後報告でおしまい。ぼくが子どもの頃の近所づきあいは、どこもこんな調子だった。
 ぼくは、隣家のテレビのチャンネル権まで持っているような状態だった。ただしチャンネル権といっても選択肢は限られていた。当時の静岡県には、NHK総合テレビとNHK教育テレビのほかには、静岡放送(SBS)テレビという民放が一局しかなかったからだ。


 父が戸板に載せられたまま家に運ばれてきたのは、ぼくが小学校を卒業する直前の真冬の朝のことだった。父を運んできた男性たちによると、凍てついた深いドブ川の中で倒れているのが、朝になって発見されたのだという。前夜、酔っぱらってドブ川に落ちて、頭を打ったのではないかと話していた。冷たいドブ川の水に浸かったまま一夜を明かした父は、この日以来、寝たきりの生活になった。
 父がいなかった頃のほうが、家の中は平和だった。
 なんとかトイレには立てるようになった父は、身体が自由にならない苛立ちで、母やぼくに当たり散らす。身体が満足に動かないのに、酒を呑んでは暴れることもたびたびだった。
「あのまま死んでしまえばよかったのにねえ……」
「あのオヤジが死んだら、町内で提灯行列を出してやるのに……」
 近所の人たちが、息子のぼくに面と向かってこんなことをいうほどに、酒乱で有名な父親だった。
 父は、歩ける距離が長くなると、すぐに外に酒を呑みに出た。帰りは、いつも深夜。大声で喚きながら歩くため、近所の人も睡眠を妨げられることが多かった。
 父の面倒まで見なくてはならなくなった母は、ぼくが小学校を卒業した年に、調理師学校に入学した。手に職をつけないと、親子三人が食べていけないという理由で、母の実家の支援を受け、学校に入ることにしたのだった。せめて、ぼくを高校まで出してやりたい……というのが母の悲願になっていた。
 母は、昼は調理師学校に通い、夜は近所の割烹旅館で働くようになった。その旅館では、市内にある三軒の映画館すべてに、スライド広告を出していた。その関係で、毎週、映画館から招待状が届くのだが、旅館で働く人たちは、忙しくて映画など見にいっている暇がない。そこで招待券は、映画好きということになっていたぼくが、すべて独占させてもらえることになった。
 おかげで母が映画館をやめても、映画館通いがつづけられることになった。それも毎週、三軒の映画館に行けるのだ。どの映画館も三本立てが基本である。毎週九本、年間四百本以上もの映画を見る生活が、高校を卒業するまでつづいたのだ。
 上映される映画の大半は、プログラムピクチャーとも呼ばれた大衆向けの娯楽映画だった。
 一九六〇年代後半、日活と大映は凋落の一途をたどっていたが、東映はヤクザ映画が好調で、東宝には特撮とクレージーキャッツと若大将のシリーズがあった。洋画では「007」をはじめとするスパイものや戦争映画、そしてフランスのギャング映画にも夢中になった。
 映画に熱中した理由は別にもあった。母が割烹旅館で働きはじめたこともあって、学校から家に帰った後は、深夜まで父とふたりだけになってしまうのだ。
 六畳二間だけの家で、父が寝ている奥の部屋とは障子で仕切られているだけだった。寝ているだけならいいのだが、始終、誰かをののしったり叫んだりしつづけているのだ。
 父の声を聞いているのが耐えられず、夜になると、すぐに映画館に足を向けた。映画館に行ってスクリーンを見つめていれば、嫌なことを忘れることができたからである。
 それでも映画館は三軒しかない。週のうち三日は映画館で時間をつぶせたが、残りの日は、別のことで気をまぎらわせる必要があった。
 ぼくは、新しい気晴らしを見つけていた。
 新しい気晴らし――それはマンガを描くことだった。小学六年生の終わりに描きはじめたマンガに熱を入れるようになったのだ。マンガを描くこと。それは自分の作った物語の世界に没入することであり、夢の世界で遊ぶことでもあった。
 マンガを描くことに夢中になればなるほど、父の声も遠くなった。ぼくにとってマンガを描くことは、映画を見るのと同様に、現実逃避の行動でもあったらしい。

  つづく
  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 02:53 Comments(0)TrackBack(0)