2008年07月19日

■『仮面ライダー青春譜』第8回

 第2章 紙の街に生まれて

●週刊少年誌の時代

 中学生になったのは、昭和三十八(一九六三)年の春だった。
 中学に入るとクラブ活動がある。
 最初、剣道部に入ったが、すぐに物理部に鞍替えした。アマチュア無線というものに興味を持ってしまったからである。
 もともと機械いじりが好きで、ラジオでも時計でも、すぐに分解するクセのあったぼくは、近所でアマチュア無線をやっていた人の家に遊びにいくと、たちまち影響を受けた。
 ラジオ雑誌を借りてくると、そこに載っていた回路図を参考に、真空管を使ったワイヤレスマイクを組み立ててしまったのだ。部品は壊れたラジオをバラして取りはずしたものばかり。6WC5、12Aという五球スーパーラジオの真空管を二本だけ使った簡単なワイヤレスマイクだった。
 剣道部をやめて物理部に入りなおしたのは、実験室にある工具や計器を借りることができたからだ。テスターのような高価な計器は、中学生の小遣いでは買えなかった。
 クズ屋さんからタダ同然で払い下げてもらった中古ラジオから部品をはずしては、受信機やら送信機やらをアルミのシャシーに組み付けていく。
 マイクは高価で買えなかったため、明治製菓のマーブルチョコを代用にした。筒状のケースの底にクリスタルイヤホーンを入れ、口の部分をガーゼで覆ってマイクの代わりにしたものだ。マーブルチョコには、『鉄腕アトム』のシールがオマケについていたので、マンガ好きでもあったぼくには、一挙両得だった。
 こうしてぼくは、次第にラジオ少年に変身していった。ラジオをイヤホーンで聴くという習慣ができてからは、父の声も、前ほどには気にならなくなった。
 ラジオ作りに熱中する時間が増えてはいたが、だからといってマンガ少年をやめたわけではなかった。
 中学生になると学校給食がなくなり、弁当持参になった。しかし、夜、旅館で働いている母は、朝が遅くて弁当を作る時間がとれず、ぼくの昼食は、毎日パンになった。このパン代を節約して、ぼくは毎週「少年サンデー」と「少年マガジン」を購入するようになった。マンガ雑誌も、すでに週刊誌全盛の時代となっていた。
「少年サンデー」には『伊賀の影丸』(横山光輝)、『大空のちかい』(久里一平)があった。
『紫電改のタカ』切り抜き
「少年マガジン」から切り抜いた
『紫電改のタカ』のファイル。
「少年マガジン」では『ちかいの魔球』(原作・福本和也/マンガ・ちばてつや)が終了し、『紫電改のタカ』(ちばてつや)がはじまっていた。
 月刊誌では「少年」で『サスケ』(白土三平)が人気を呼び、白土三平は「少年ブック」でも『真田剣流』という忍者マンガを連載し、「少年サンデー」には、『イシミツ』という不老不死の薬をテーマにしたオムニバスの忍者マンガを連載した。
 月刊少年誌が最後の残り火を燃やしていた時代でもあった。戦記マンガと忍者マンガ--そして、野球マンガを中心にしたスポーツマンガ。これらが昭和三十八(一九六三)年前後の少年マンガ雑誌の状況だった。
 さいわいにしてぼくは、家で勉強をしろといわれた記憶がない。宿題も家でやっていたのは、小学生のときまでだった。中学生になると宿題は、学校にいってから休み時間にやるものと決め、家ではラジオ作りとマンガ描きに明け暮れていた。
 読む雑誌も増えていた。マンガ雑誌、戦記雑誌、航空雑誌に加え、ラジオ雑誌まで読むようになったのだ。
 この頃の「初歩のラジオ」「子供の科学」(ともに誠文堂新光社)の読書投稿欄には、達者なペンタッチのカットが載っていることがあった。あきらかにマンガを描いていると思える絵で、作者の名前は忠津陽子となっていた。憶えているのは、かわいらしい雪ダルマを描いたもので、年齢は十二歳。ぼくと同年齢くらいだった。
 あまりに手慣れた絵で、いつかデビューするんじゃないかと思っていたら、本当に集英社でデビューした。ぼくの目に狂いはなかったことになる。エヘン。
 ほかに山口県下関市・青池保子という人のカットも見た記憶があるのだけれど。住所まで憶えているんだから、講談社新人漫画賞を受賞する前のことだと思うんだけどなあ……。

 中学二年生になると、ますますラジオ作りがエスカレートした。実際にハムをやっている教師が物理部の顧問になったせいだ。
 この教師の自宅に押し掛けて、高価だった水晶発振子を貸してもらったり、足りない部品を分けてもらったりもした。
 この年――昭和三十九(一九六四)年の最も大きなできごとは、なんといっても東京オリンピックだった。その直前、新幹線も開通し、三波春夫の「東京五輪音頭」のテーマソングに乗って、日本中が沸いていた。
 オリンピックのテレビ中継を授業でも見ることになり、電気に詳しいぼくが選抜されて、図書室にテレビを設置した。
 クラブ活動とは別に、クラスごとに各種の学級委員が任命されていたが、ぼくは担任の教師から、強制的に図書委員に任命された。理由は、実に簡単だった。図書委員になりたい生徒がいなかったので、担任教師は図書室に出かけて貸し出しカードを抱えてくると、そのなかで一番たくさん本を借り出している生徒を調べはじめたのだ。
 結果は、ぼくがダントツの一位だった。
 マンガやラジオ雑誌以外の「普通の本」は学校の図書室で借りる。それがぼくの信条で、図書室の本を毎日のように借り出していた。それも小学校のときから愛読していた岩波少年少女文庫から、電気やラジオに関係する本までだ。
 化学部の部長と鍵のかかった薬品室の窓をこじ開け、硝酸、塩酸、硫酸、マグネシウムなどを持ち出しては、王水や火薬もどきなどを作っていたが、そんな化学の知識も、すべて図書室の本から得たものだった。
 アインシュタインの相対性理論の解説書まで読んでいた。理解できたかどうかは別問題だが、太陽風というものを目視できるのではないかと、スピーカーを鳴らすトランスをバラしてほぐした髪の毛のように細いエナメル線を、学校のグランドの端から端まで二〇〇メートルほども引っ張ったこともある。
 そんな本の書名が羅列された図書の貸し出しカードを見て、ぼくを図書委員に任命した担任教師の一言がすごかった。
「おめえ、精神分裂症じゃねえの?」
 体育の教師だったせいで、言葉も乱暴だったが、この言葉は、実に的確だったようにも思う。
 マンガも描いていたが、戦争マンガだけでなく、ミステリーや冒険ものにも手を出すようになっていた。これも図書室で借りた本の影響だった。
『ツバメ号シリーズ』で知られるアーサー・ランサム、『エーミールと探偵たち』『飛ぶ教室』『ふたりのロッテ』などのエーリヒ・ケストナー、『名探偵カッレ君』のアストリッド・リンドグレーン、そして『怪盗ルパン』のモーリス・ルブランといった作品を集めた岩波少年少女文庫は、小学生のときに一通り読んでいたのに、中学生になっても読み返していた。

  つづく


  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 20:52

2008年07月19日

■『仮面ライダー青春譜』第7回

 第2章 紙の街に生まれて

●「マンガのかきかた」

 大熊クンというクラスメイトが、突然、自作のマンガを学校に持ってきたのは、小学六年生の終わり頃だった。
 少年雑誌のフロクと同じB6サイズの紙に、数十ページのSFロボットマンガを描いたものだ。しかも墨汁をつけたペンで描かれ、色鉛筆で彩色された表紙までついていた。
「菅谷クンも絵が好きなんだから、マンガを描いてみたら?」
マンガのかきかた(冒険王編集部・編,1962)
『マンガのかきかた』(冒険王編集部・編/秋田書店/1962)(クリックで拡大表示)。
 おっとりした性格の大熊クンは、そういって、秋田書店から発売されていた『マンガのかきかた』という手塚治虫監修のマンガ入門書を貸してくれた。
 その本には、マンガはペンと墨汁で描くこと、失敗したところはホワイトという白のポスターカラーで修正すること、マンガを描くのは模造紙がいいこと。実際に印刷されたものよりも二割拡大のサイズで描くこと。そんなことが、ていねいに説明されていた。
 こんなにも本格的で実践的なマンガの入門書を読むのは初めてだった。



『漫画自習手本』1950年刊。インターネットの古書店で見つけ、2007年に購入(クリックで拡大表示)。
 ぼくが物心ついたとき、ぼくの家には、終戦直後に発行になったらしいボロボロの『漫画自習手本』というマンガ教本があった。載っていたのは「ポパイ」や「ベティちゃん」の描き方ばかり。ストーリーマンガの描き方は解説されていなかった。
 ところが秋田書店の『マンガのかきかた』には、ストーリーの作り方から時間経過の描写法まで、マンガ製作の実際が、実に詳しく説明されていた。
 ぼくは、『まんがのかきかた』を借りては返し、また借りてを繰り返しながら、ペン先を買い、墨汁やホワイトをそろえていった。さらに全紙大の模造紙を八等分したものに千枚通しで穴を開け、B5判を二割拡大した原稿用紙を作ると、ついにマンガを描きはじめたのだ。
 参考書となった『マンガのかきかた』は、何度、借りたかわからない。大熊クンもついにあきれはて、「そんなに熱心に読むんなら、その本、菅谷くんにあげるよ」ということになった。
 こうして小学六年生の終わりから描きはじめたマンガの第一作目は、もちろん、零戦やグラマンが活躍する航空戦記マンガだった。

小学6年生のとき、生まれて初めてペンにスミをつけて描いたマンガ

小学6年生のとき、生まれて初めてペンにスミをつけて描いたマンガ
(小学6年生のとき、生まれて初めてペンにスミをつけて描いたマンガ)

 松本あきらの『燃えろ南十字星』に多大なる影響を受けたストーリーで、被弾して片脚が出なくなった一機の零戦が、ラバウル基地の滑走路に不時着するところからストーリーがはじまっていた。
 不時着しようとした主人公の零戦の背後には、すでに危機が迫っていた。ロッキードP‐38「ライトニング」戦闘機が、ぴったりと後ろにつけていたのである。
 一ページ描いては、次のページのストーリーを考えてコマ割りをし、鉛筆で下絵を入れては、ペンを入れてベタを塗る。その繰り返しでマンガを描きつづけていったが、いきあたりばったりだったせいで、八〇ページを過ぎてもストーリーが完結しなかった。撃墜王を競う仲間とともに敵に撃墜され、無人島に不時着した主人公が、戦争で人を殺してもいいのかどうかで論争をはじめたせいで、収拾がつかなくなってしまったのだ。
 小学生の頭では、整理できない大きな命題に取り組んだのが敗因だった。ぼくは完結を断念した。
 その結果、記念すべき処女作は、未完の大作のまま終わることになる。処女作の原稿を放り出したときには、もう中学生になっていた。

  つづく


  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 03:20

2008年07月19日

■あらしマイコン百科『MSXストーリー』

 マンガ『ビル・ゲイツ物語』、マンガ『アップルIIストーリー』につづくマンガ版パソコン・ヒストリー・シリーズ第3弾をお届けします。

 今回は、規格統一パソコン「MSX」の開発秘話(ってほどのものじゃありませんが)。マイクロソフト社のビル・ゲイツ社長(「ゲーツ」じゃなくて「ゲイツ」になってますね)、同社の西和彦副社長(アスキー社長)、そして、ソフトバンクの孫正義会長も登場します。

 ソフトバンクは、もともとパソコンソフトの流通を担う会社でしたが、会社の設立資金は孫会長が、カリフォルニア州立大学バークレー校(スティーブ・ウォズニアクと同じ)にいた頃に開発した「電訳機」の権利をシャープに売って得たものでした。たしか当時(1978年)の金額で1億円だったはずです。

 では、6ページという超短篇ですが、そんなパソコン界の若き獅子たちの活躍をご覧あれ。

■あらしマイコン百科『くるぞマイコンの新しい波』
  「別冊コロコロコミック」(1983年10月号掲載)

あらしマイコン百科「くるぞマイコンの新しい波」1
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あらしマイコン百科「くるぞマイコンの新しい波」2
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あらしマイコン百科「くるぞマイコンの新しい波」3
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あらしマイコン百科「くるぞマイコンの新しい波」4
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あらしマイコン百科「くるぞマイコンの新しい波」5
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あらしマイコン百科「くるぞマイコンの新しい波」6
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Posted by すがやみつる/菅谷充 at 00:03マンガ/アニメ