2008年07月20日
■『仮面ライダー青春譜』第9回
第2章 紙の街に生まれて
●「ボーイズライフ」がやってきた
「ボーイズライフ」という革新的な少年雑誌が小学館から創刊されたのは、昭和三十八(一九六三)年のことだった。ぼくが中一のときのことだ。「中学生の友」という雑誌の休刊後、新たに中学生以上の男子向けに創刊された雑誌で、少しマニアックなマンガや記事が掲載されていた。
マンガでいえば『片目猿』(横山光輝)や白土三平の短篇オムニバス。大藪春彦のガンアクション小説やSFもあった。
この雑誌に、ショーン・コネリー主演の映画で人気の出ていた「007シリーズ」の一作『死ぬのは奴らだ』(イアン・フレミング原作/さいとう・たかを劇画)の連載が、突如として開始されたのは、東京オリンピックで明け暮れた一九六四年が終わる頃だった。
すでに貸本劇画の巨匠だったゴリラこと、さいとう・たかをが、本格的にメジャー雑誌に連載で登場した記念すべき作品でもあった(芳文社の大人向け漫画誌に作品を発表していたことはあったが、少年向け作品は、この直前に「少年サンデー」増刊号に掲載された『燃えろ忍びの森』という読み切り時代劇くらいしかなかったはずだ)。
「ボーイズライフ」の『007』は、さいとう・たかをの貸本劇画作品とは、あきらかにちがっていた。冒頭の高層ビル街の夜景が、すでに凝りに凝った精細なペン画になっていた。この絵を見ると、貸本劇画作品は、描き飛ばしていたとしか思えないほどだった。この『007シリーズ』なくしては、『ゴルゴ13』もなかったはずだとぼくは信じている。
「ボーイスライフ」には、長岡秀三というイラストレーターが口絵ページで活躍をつづけていた。空母「ミッドウェー」の透視図を描いた大判のポスターが、特別フロクについたこともある。
長岡秀三は、「ボーイズライフ」の仕事と並行して、「少年サンデー」の口絵や挿絵の仕事もこなしていた。戦艦「大和」や零戦の分解図や透視図が多かったが、これらの仕事をしていた頃の長岡秀三は、まだ武蔵野美術大学のデザイン科に在学する学生だったらしい。少年雑誌の口絵や挿絵の仕事は、学費を稼ぐためのアルバイトだったのだ。
このとき武蔵野美大で席を並べていたのが、後にマンガ家となって『同棲時代』などでヒットを飛ばす上村一夫だった。上村氏は、授業中に「少年サンデー」の口絵を描いている長岡に驚嘆していたという。
「少年ブック」の表紙を描いていた高荷義之のファンでもあったぼくは、同じように精緻な絵を描く長岡秀三のファンでもあった。
長岡秀三は、後にアメリカに渡り、カーペンターズやジェファーソン・スターシップのレコード・ジャケットを手がけて名をあげる。渡米後の名前は長岡秀星になっていた。
ここでは意識して「口絵」「挿絵」という言葉を使っているが、「イラスト」という言葉がポピュラーになるのは、もう少し後になる。「平凡パンチ」で大橋歩や柳生弦一郎などが人気者になってからのことだ。すでに、そのきざしはあったのかもしれないが、少年雑誌の世界では、まだまだ「口絵」であり「挿絵」であった。
「ボーイズライフ」は、このようなビジュアル面だけでなく、読物にも力を入れていた。それまで、どこか日陰の作家のイメージがあり、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)の専属作家のような感さえあった大薮春彦が、ガンアクション小説の連載をつづけていた。また、いまをときめくSF作家たちが、外国人の名前でSF読物を書いたりもしていたらしい。
ぼくは小学生の頃から、大薮春彦の隠れ愛読者でもあった。近所の友人の家に遊びにいくと、いつも「アサヒ芸能」が置かれていた。どうやら父親が購読していたものらしい。当時の田舎では「アサヒ芸能」は、完全なエロ本扱いだった。子供が読んでいたら必ず怒られる雑誌でもあったが、ぼくは、毎週、この友人の家に遊びにいっては、こっそりと「アサヒ芸能」を開いていた。
目的は大薮春彦のガンアクション小説だった。性的な描写があったかどうかは記憶にない。拳銃やライフルの出てくるシーンばかりを拾い読みしていたからだろう。ルガーP‐08、ワルサーP‐38といった拳銃のスペックは、大藪小説を通じて憶えていった。
のちに小学館の編集者に聞くと、この「ボーイズライフ」の社内での位置づけは、〈早すぎた雑誌〉であったらしい。一部の好き者少年には評判のよかった「ボーイズライフ」も、一九六八年には休刊となったが、高校生以上にまで成長していたマンガ好きの読者のためには「ビッグコミック」を生み出し、記事とグラビア部門は、「GORO」を生み出す母胎となった。一九六八年の休刊直前に連載されていた大藪春彦の『血まみれの野獣』は、この年の暮れに東京府中で発生した三億円事件とストーリーがそっくりで、犯人が参考にしたのではないかともいわれていた。
「ボーイズライフ」を読んでいなかったら、ぼくもマンガ家にならなかったかもしれない。前述したように、この雑誌の読書欄で見つけたマンガ同人誌の会員募集に応募したことが、マンガ家への足がかりとなったからである。
つづく
●「ボーイズライフ」がやってきた
「ボーイズライフ」という革新的な少年雑誌が小学館から創刊されたのは、昭和三十八(一九六三)年のことだった。ぼくが中一のときのことだ。「中学生の友」という雑誌の休刊後、新たに中学生以上の男子向けに創刊された雑誌で、少しマニアックなマンガや記事が掲載されていた。
マンガでいえば『片目猿』(横山光輝)や白土三平の短篇オムニバス。大藪春彦のガンアクション小説やSFもあった。
この雑誌に、ショーン・コネリー主演の映画で人気の出ていた「007シリーズ」の一作『死ぬのは奴らだ』(イアン・フレミング原作/さいとう・たかを劇画)の連載が、突如として開始されたのは、東京オリンピックで明け暮れた一九六四年が終わる頃だった。
すでに貸本劇画の巨匠だったゴリラこと、さいとう・たかをが、本格的にメジャー雑誌に連載で登場した記念すべき作品でもあった(芳文社の大人向け漫画誌に作品を発表していたことはあったが、少年向け作品は、この直前に「少年サンデー」増刊号に掲載された『燃えろ忍びの森』という読み切り時代劇くらいしかなかったはずだ)。
「ボーイズライフ」の『007』は、さいとう・たかをの貸本劇画作品とは、あきらかにちがっていた。冒頭の高層ビル街の夜景が、すでに凝りに凝った精細なペン画になっていた。この絵を見ると、貸本劇画作品は、描き飛ばしていたとしか思えないほどだった。この『007シリーズ』なくしては、『ゴルゴ13』もなかったはずだとぼくは信じている。
「ボーイスライフ」には、長岡秀三というイラストレーターが口絵ページで活躍をつづけていた。空母「ミッドウェー」の透視図を描いた大判のポスターが、特別フロクについたこともある。
長岡秀三は、「ボーイズライフ」の仕事と並行して、「少年サンデー」の口絵や挿絵の仕事もこなしていた。戦艦「大和」や零戦の分解図や透視図が多かったが、これらの仕事をしていた頃の長岡秀三は、まだ武蔵野美術大学のデザイン科に在学する学生だったらしい。少年雑誌の口絵や挿絵の仕事は、学費を稼ぐためのアルバイトだったのだ。
このとき武蔵野美大で席を並べていたのが、後にマンガ家となって『同棲時代』などでヒットを飛ばす上村一夫だった。上村氏は、授業中に「少年サンデー」の口絵を描いている長岡に驚嘆していたという。
「少年ブック」の表紙を描いていた高荷義之のファンでもあったぼくは、同じように精緻な絵を描く長岡秀三のファンでもあった。
長岡秀三は、後にアメリカに渡り、カーペンターズやジェファーソン・スターシップのレコード・ジャケットを手がけて名をあげる。渡米後の名前は長岡秀星になっていた。
ここでは意識して「口絵」「挿絵」という言葉を使っているが、「イラスト」という言葉がポピュラーになるのは、もう少し後になる。「平凡パンチ」で大橋歩や柳生弦一郎などが人気者になってからのことだ。すでに、そのきざしはあったのかもしれないが、少年雑誌の世界では、まだまだ「口絵」であり「挿絵」であった。
「ボーイズライフ」は、このようなビジュアル面だけでなく、読物にも力を入れていた。それまで、どこか日陰の作家のイメージがあり、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)の専属作家のような感さえあった大薮春彦が、ガンアクション小説の連載をつづけていた。また、いまをときめくSF作家たちが、外国人の名前でSF読物を書いたりもしていたらしい。
ぼくは小学生の頃から、大薮春彦の隠れ愛読者でもあった。近所の友人の家に遊びにいくと、いつも「アサヒ芸能」が置かれていた。どうやら父親が購読していたものらしい。当時の田舎では「アサヒ芸能」は、完全なエロ本扱いだった。子供が読んでいたら必ず怒られる雑誌でもあったが、ぼくは、毎週、この友人の家に遊びにいっては、こっそりと「アサヒ芸能」を開いていた。
目的は大薮春彦のガンアクション小説だった。性的な描写があったかどうかは記憶にない。拳銃やライフルの出てくるシーンばかりを拾い読みしていたからだろう。ルガーP‐08、ワルサーP‐38といった拳銃のスペックは、大藪小説を通じて憶えていった。
のちに小学館の編集者に聞くと、この「ボーイズライフ」の社内での位置づけは、〈早すぎた雑誌〉であったらしい。一部の好き者少年には評判のよかった「ボーイズライフ」も、一九六八年には休刊となったが、高校生以上にまで成長していたマンガ好きの読者のためには「ビッグコミック」を生み出し、記事とグラビア部門は、「GORO」を生み出す母胎となった。一九六八年の休刊直前に連載されていた大藪春彦の『血まみれの野獣』は、この年の暮れに東京府中で発生した三億円事件とストーリーがそっくりで、犯人が参考にしたのではないかともいわれていた。
「ボーイズライフ」を読んでいなかったら、ぼくもマンガ家にならなかったかもしれない。前述したように、この雑誌の読書欄で見つけたマンガ同人誌の会員募集に応募したことが、マンガ家への足がかりとなったからである。
つづく



