2008年07月27日

■『仮面ライダー青春譜』第15回

 第2章 紙の街に生まれて

●貸本劇画の衰退

 昭和三十年代に隆盛をみた貸本店向けの短編劇画集は、昭和四十年代に入ると、「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」といった少年週刊誌の台頭やテレビの普及によって、ドミノ倒しのようにバタバタと倒れ、次々に休刊していった。
 大阪を中心に活動していた劇画家の多くは、活動拠点を東京に移し、しばらくのあいだは貸本屋向けの単行本でがんばっていた。
 さいとう・たかをは、さいとうプロを設立し、佐藤まさあきも同じく佐藤プロを設立する。それぞれが、自分のプロダクションから劇画の単行本を出版するようになっていた。おそらく、このあたりが、「みずから自分たちの描く作品を劇画と読んだ」作家たちの貸本劇画時代における黄金期ではなかっただろうか。
 同じ頃、さいとうプロや佐藤プロの躍進ぶりに刺激されてか、ほかの貸本劇画作家たちも、自身のプロダクションを設立し、単行本を出版するようになっていた。横山まさみちの横山プロ(通称「横みちプロ」)も、そんな劇画家が出版も手がけるプロダクションのひとつだった。
 これら劇画家プロダクションからは、新しい勢力として、アシスタント出身の劇画家が登場しはじめていた。
 さいとうプロの短編集「ゴリラマガジン」では、以前は「魔像」などに時代劇をよく描いていた石川フミヤス、さいとうのアシスタント出身の武本サブローなどが短編を描いていた。石川フミヤスは、別に長編の青春劇画シリーズなども描いていた。
 そして、さいとう・たかを自身は、『台風五郎』シリーズなどのヒット作品を描きつづけていた。
 佐藤まさあきが一貫して描きつづけていたのが『影男シリーズ』だ。また、三洋社(後の青林堂)から出ていた短編集「ハードボイルド・マガジン」の責任編集などもやっていたこともある。佐藤は、この三洋社から『黒い傷痕のブルース』というハードボイルド系の作品も出している。
 佐藤まさあきのアシスタントからは、後年、松森正が「COM」からデビューすることになるが、面白いのは、これら劇画家たちのアシスタントの多くが、貸本屋向け単行本の読者欄に設けられた似顔絵投稿欄の常連だったことだ。
 松森正(熊本県)も投稿欄の常連だったし、後に南波健二のアシスタントになる永安(ながやす)巧(熊本県)や安達(あだち)勉・充の兄弟(群馬県伊勢崎市)も、毎月のように貸本劇画の投書欄をにぎわせていた。
 安達兄弟はメチャクチャに絵がうまく、静岡の片田舎で貸本劇画の読書欄をながめていたぼくは、彼らのことを「群馬の天才兄弟」と呼んでいた。
 とりわけ弟の安達充は、名前が同じで、しかも同年齢ということもあって、妙に気になる存在でもあった。
 兄の安達勉は、その後、赤塚不二夫のアシスタントになり、あだち勉としてデビューする(二〇〇四年に亡くなったとのこと)。
 弟の安達充は高校生のときに「COM」の新人賞に佳作入選した後、石井いさみのアシスタントを経て、マンガ家として独立する。ペンネームは、あだち充だった(一九八三年に、あだち充氏と一緒に小学館漫画賞を受賞したぼくは、控え室で初対面となったのだが、憧れの人に会ったような気分になってドギマギしてしまい、まともに言葉も交わすことができなかった)。
 昭和四十年代に入ると廃業する貸本屋も増えはじめ、貸本劇画業界全体が、急坂を転がり落ちるような勢いで滅びへの道を突き進んでいく。
 そんななかにあって、貸本の最後の残り火のように輝いて見えたのが、東京トップ社という貸本劇画の出版社だった。
 短編集では「刑事」があった。昭和四十四(一九六九)年頃まで出版され、最終巻は四十六号だった記憶がある。
 ここには、巨匠のさいとう・たかをや、影丸譲也、永島慎二たちが作品を寄せていた。
 永島慎二の代表作のひとつ『漫画家残酷物語』も「刑事」に発表されたシリーズだった。『貧乏なマルタン』『漫画家とその弟子』など、アクション劇画誌には似つかわしくない作品を描いていたが、中学生のぼくには、まだ、ピンときていなかった。ピンと来て、あらためてシビレるのは高校に入ってからである。
 長編では、ありかわ栄一改め園田光慶が、ひとり飛び抜けてきれいな絵を描いていた。
 絵がきれいな分だけ雑誌への登場も早かった。「少年キング」に連載した柔道ものの『車大助』や、「少年画報」に連載した探偵マンガの『ホームラン探偵局』など、貸本劇画出身者とは思えない清潔感のある絵とシャープな描線が、マニア(ぼくのことだ)をうならせていた。
 園田は、貸本劇画家だった時代に、「座頭市」の現代版ともいえる盲目の殺し屋を主人公にした『完全紳士』でヒットを飛ばしていた。コートをめくると、そこに殺しの武器がズラリと納められていて、実にカッコいい劇画だった。
『アイアン・マッスル』復刻版表紙
『アイアン・マッスル』復刻版本文
『アイアン・マッスル』(マンガショップ/2005年3月刊/1,890円)より。
『ホームラン探偵局』の雑誌連載と同時期(一九六四年頃)、東京トップ社から出したのが『アイアン・マッスル』のシリーズである。園田は、『アイアン・マッスル』を発表することで、まさに劇画界の革命児となった。
 ラフなタッチの絵が多かった貸本劇画の世界に、かっちりとしたきれいな線を持ち込んだだけでなく、アクションシーンの人物にも、アメコミの影響によるものとおぼしき極端な遠近処理をほどこしていた。構図に奥行きをもたらし、同時に、定規の線で人物の顔や身体に影を加えることにより、さらなる立体感を出した。
 格闘シーンでは、雲形定規を使ったかのようなきれいに揃った曲線を多用し、動きのスピード感と激しさを表現した。
 主人公に殴られる悪党たちは、顔を変形させながら血しぶきを噴出させていた。その表情があまりにも痛そうで、殴られる悪人にちょっぴり同情したこともある。
 貸本劇画を読みはじめていたぼくも、すぐさま『アイアン・マッスル』の絵柄をマネしてみたが、デッサン力の問題で、すぐに断念した。
 園田が開発した技法をマネたのは、ぼくのようなアマチュアだけではなかった。多くの同業者が、次々と園田の構図やペンタッチを採り入れていったのだ。川崎のぼると南波健二のふたりが、もっとも影響を受けていたのではなかろうか(洗練された絵柄は川崎のぼるが先だったかもしれない)。
『あかつきの戦闘隊』(第2部) 貸本劇画家のなかで、いちはやく雑誌進出を果たした園田だったが、『あかつきの戦闘隊』の頃には、多くの追随者を生んだ貸本劇画時代の絵柄を捨て去っていた。『あかつきの戦闘隊』は、それまでの園田の絵を知っている者にとっては、まるで別人の作品に見えたものだ。
『あかつきの戦闘隊』のあとに手がけた『ターゲット』になると、園田の絵は、さらに変わっていた。
 天才肌の半面、飽きっぽい一面もあったのか、園田は、「少年キング」連載の『赤き血のイレブン』(梶原一騎・原作)を途中で投げ出すと、『三国史』などの歴史劇画でカムバックするまで、しばらく沈黙してしまう。
 園田の影響を受けた劇画家のなかでは、川崎のぼるが最初に雑誌の世界で活躍を開始した。「少年ブック」の『大平原児』や『スカイヤーズ5』、「少年サンデー」の『アタック拳』や『タイガー66』からはじまり、後の『アニマル1』や『巨人の星』に至るまで、メジャー路線を歩みつづけていく。
 南波健二は、テレビの『コンバット』に影響された戦争劇画が得意だった。彼も、園田光慶に影響されたのか、絵が洗練されていき、やがて、少年誌に登場するようになる。「少年画報」に連載された『キック魂(ガッツ)』(原作・梶原一騎)などが人気を呼んでいた。
 東京トップ社で異色の存在だったのが旭丘光志だった。『渡り鳥シリーズ』というギターを背負った青年が主人公の作品(どこから見ても小林旭の「渡り鳥シリーズ」だった)と、「社会派劇画シリーズ」と呼ばれる実際の冤罪事件などをモデルにした実録性の強い作品を交互に描いていた。後者のタイプは、のちに「少年マガジン」などで社会派劇画として話題になる作品群の原点でもあった。
 のちに編集プロに勤務し、旭丘光志氏の社会派劇画が特集された「少年マガジン」増刊号の編集を担当したとき、東武東上線沿線にお住まいだった旭丘氏のお宅まで、原稿を受け取りにいったことがある。
 そのとき、生意気にも、旭丘氏に、こんな質問をした。
「東京トップ社では、社会派劇画と『渡り鳥』シリーズを交互に描いてらっしゃいましたが、どうしてなんですか?」
 旭丘氏の作品は、高校生のときに、ほぼ読んでいたが、東京トップ社から刊行された作品のなかでは、どうみても社会派劇画のほうに力が入っていると思えたからである。
「社会派の方は売れ行きが悪くてね、『渡り鳥』を描かないと、社会派ものを出させてもらえなかったんだよ」
 旭丘氏は、あっさりと予想どおりの回答をしてくださったものだ。

  つづく

  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 13:29 Comments(0)TrackBack(0)