2008年08月31日

■『仮面ライダー青春譜』第51回

 第5章 見習い編集者の頃

●文芸地下の支配人は発明マニア

 鈴木プロには、マンガ関係者以外の人の出入りも多かった。そのなかで、とりわけ印象に残っているが、隣にある名画座の文芸地下(文芸座の地下にあった邦画専門の映画館)で支配人をしていたAさんである。
 頭髪の後ろを刈りあげ、黒縁の眼鏡をかけて、ワイシャツに黒い腕抜き(袖の汚れをする筒状のカバー)をつけたAさんの外見は、どこから見ても田舎町の役場の職員だった。
 Aさんは、週に一、二回くらいのペースで、鈴木プロにやってきた。大柄な身体の背をまるめて椅子にすわり、女性事務員が出してくれたお茶を飲みながら、しばし雑談していくのである。とくにマンガが好きというわけではなさそうだった。それよりも、とにかくいろんなことを知っていて、その博識ぶりを披露したいがために、遊びに来ているようなところがあった。
 Aさんと顔なじみになったおかげで、文芸地下には、何度か顔パスで入れてもらうことができた。田宮二郎主演の『黒の試走車』を見ていたときには、走ってきたネズミが足に当たったことがあるが、そんな感触をやけにハッキリと憶えている。
 映画の旧作を百円で見せてくれる名画座の文芸座と文芸地下は、板橋にあった人生座とともに、山窩(サンカ)作家と称されていた三角寛氏の経営によるものだった。山窩とは、山中を移住して歩く流浪の民で、ミノやザルをつくって売ることで、生計を立てていたという。三角氏は、山窩研究の第一人者ともされていたが、最近の研究書によれば、創作も多かったらしい。
 三角氏が埼玉の毛呂山町というところに所有していた山荘に、Aさんのツテで社員旅行に出かけたこともあった。季節は春で、翌日は、鎌北湖という湖のほとりでお花見をしたものだ。

「菅谷くん、ちょっと、これ見てくれない」
 ある日のこと、鈴木プロにやってきたAさんが、何やら図面らしきもの開いて、ぼくに見せた。
 そこに描かれていたのは、なんとブラジャーの絵であった。しかも胸のカップの頂点に、何やら豆粒のようなものがついている。
「何ですか、これ?」
 ぼくが訊ねると、Aさんは得意そうに胸をそらせていった。
「見てのとおり、乳首つきブラジャーだよ。ぼくが考案したんだけどね」
 といってウフフと微笑んだAさんは、実は発明が趣味だったのだ。
 この当時、アメリカからウーマン・リブという女性解放運動の波がやってきて、女性解放の象徴として、ブラジャーをはずそうという掛け声が発せられていた。また、一世を風靡していたフーテンやヒッピーの女性たちも、自由の象徴としてTシャツの下はノーブラにする、というのが標準のファッションになっていた頃だ。
「でも、実際にノーブラになるのは、勇気が要ると思うんだよね。だから、こんなノーブラに見えるブラジャーが発売されれば、けっこう売れるんじゃないかと思うんだけど、どう思う?」
 今風にいえば、ナンチャッテ・ノーブラということにでもなりそうだ。でも、「どう思う?」と問われても、女性じゃないので、ブラジャーをつけたとき、つけないときの感触や心理状態などわからない。助け船を求めようと女性事務員に目を向けると、話の内容に呆れていたのか、プイとそっぽを向いて視線をそらしていた。
「これを弁理士さんのところに持ち込んで、特許を取得してもらおうと思ってね。たぶん売れると思うんだ。いや、きっと売れるな」
 Aさんは、図面を丸めると、そそくさと出ていった。
 しばらく姿を見せなかったAさんが、久しぶりに鈴木プロに来たのは、一ヶ月くらい経ったあとのことだろうか。だが、発明の話には触れようとしない。しかたがないので、こちらから訊ねてみると、Aさんは、頭をかきながら照れ笑いした。
「いやあ、実はね。乳首つきブラジャーというのは、もう特許が取られていて、こちらの出願が認められなかったんだよ。世の中には、同じようなことを考える人がいるもんだねえ……」
 Aさんは、感慨深げだったが、いま、特許検索で調べると、現在も乳首つきブラジャーの特許が登録されている。平成になってからの登録だが、特許は、特許料を支払っていないと維持できないらしい。そのせいで、古い特許が消え、新しい特許が登録されたということなのだろう。
 女子テニスのシャラポワが、テニスウェアの下に疑似乳首をつけてプレイしたことが話題になったことがあるが、日本で、こんなものを使っている人がいるのだろうか?

  つづく


  

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2008年08月30日

■『仮面ライダー青春譜』第50回

 第5章 見習い編集者の頃

●モリケン先生、手鏡持参で打ち合わせ

 鈴木プロでは、講談社の名作マンガシリーズを編集することになり、その準備が進められていた。名作といっても『あしたのジョー』や『巨人の星』といったマンガの名作シリーズとは別の、世界の児童文学や偉人伝をマンガにするものだ。坂口尚さんの『トム・ソーヤーの冒険』(原作・マーク・トウェン)も、このシリーズの一冊だった。
 ほかに、どのような作品が刊行されたのかは、ほとんど記憶にない。ぼくが鈴木プロにいるときには、まだ原稿依頼をはじめたばかりくらいのときで、最終的なラインナップは決まっていなかったのではないかと思う。
 このシリーズのなかで、一冊だけ記憶に残っている作品がある。『丸出だめ夫』の森田拳次先生が、ご自身が敬愛するチャップリンの伝記マンガを描くというものだ。
 森田先生は、ギャグマンガの世界では、赤塚不二夫先生のライバルとされ、すでに巨匠の域にあったはずなのに、実に気さくで、しかもフットワークが軽かった。自宅は横浜だというのに、あちらから池袋まで打ち合わせに出向いてきてくれるのだ。どうやら打ち合わせのあとの一杯が目的でもあったようだが。
 最初の打ち合わせは、文芸座の前にできたレンタルームで行われることになった。文芸座は、鈴木プロが入っているビルの隣にある映画の名画座で、一階では洋画が、文芸地下と呼ばれた地下では邦画が上映されていた。その映画館の向かいに建つビルの地下に、広いフロアを小部屋に区切ったレンタルームなるものができたのだ。日本初のレンタルームだったはずで、物珍しさから、ここで打ち合わせをしようということになったのだ。
 二畳くらいの狭い室内には畳が敷かれ、座卓と座布団が置いてあった。
 部屋と部屋の間は天井まで壁になっているが、通路側は鴨居部分が開いた構造になっていた。密室にできないのは、おそらく風営法などの関係からだったのだろう。鴨居に開いた空間からは、外を歩く人の足音や両隣の部屋にいる人たちの会話が漏れてきた。
 その一室に森田先生と鈴木プロの社長、そして、ぼくの三人で入ったのだが、まだ完成間近で、ペンキ臭が立ちこめていた。
 打ち合わせをはじめようとすると、 鴨居の空間を通じて隣室から、何やら怪しい男女の声が聞こえてくるではないか。打ち合わせはそっちのけで、隣室の気配に耳をそばだてることになった。おまけにトイレにいくと、使用済みのゴム製品が浮いていた。どうやら、レンタルームなるものは、商談以外の目的で使われる場所だったらしい。
 清つねおさんが編集者との打ち合わせで、このレンタルームに入ったところ、やはり隣室から怪しい声が聞こえてくるので、壁にあった両開きの戸を開いてみると、そこにあるはずの鏡がなく、隣室が丸見えで、抱き合っているアベック(カップルという言葉はなかった)の女性と目が合ってしまったという。工事が完了していないのに、客を入れてしまったために、こんな事態が起きてしまったようだ。
『私笑説・だめ男はつらいよ』(森田拳次/亜紀書房/1995年2月刊/1,505円+税)
『私笑説・だめ男はつらいよ』(森田拳次/亜紀書房/1995年2月刊/1,505円+税)。森田先生の傑作痛快自叙伝。ニューヨークでの1コママンガ修行のことも詳しく書かれている。
 このレンタルームでの体験に、森田先生は大喜び。次回の打ち合わせは横浜で……ということになっていたはずなのに、またも、あちらから池袋まで来てくださることになった。しかも、同じ打ち合わせ場所は、同じレンタルームでとのリクエストつきだ。
 打ち合わせのためにレンタルームに入ると、森田先生は、何やらバッグから取り出した。なんと、奥様から借りてきたという柄のついた手鏡である。この鏡を鴨居の隙間から突き出して、隣室の様子を覗こうというのである。
 残念ながら、そのときは、両隣の部屋とも空室で、せっかく持参した手鏡は、役に立つことなく終わったのであった。
 しかし、この好奇心! ヒゲをのばしたままの顔で、おさげのカツラをつけ、セーラー服で女装……もといコスプレしてしまう森田先生のことだけはある。
 この直後、森田先生は、一コママンガ修行のため、ニューヨークに渡ることになる。生活の基盤確保のため、書店を開くことになり、ご家族のほかに、元アシスタントだった清つねおさんも応援のため、ニューヨークに向かうことになった。
清つねおさんにいただいた赤木圭一郎のLPレコードのジャケット。
清つねおさんにいただいた赤木圭一郎のLPレコードのジャケット。
 清さんが不要品を処分するというので、蒲田のアパートまで出かけて中古のテレビをもらい、タクシーで運んできた。さらに渡米直前にも再び呼ばれ、大事していたという赤木圭一郎の二枚組LPレコードまでもらうことになった。
 レコードをもらいにいったときは、やはり森田先生の元アシスタントだった川手浩次さんと一緒になり、帰る途中、新宿で映画をおごってもらうことになった。ふたりで見たのは、渥美マリ主演の『でんきくらげ』という映画だった。

  つづく


  

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2008年08月29日

■『仮面ライダー青春譜』第49回

 第5章 見習い編集者の頃

●ソープ嬢は赤塚マンガがお好き

 今年(二〇〇八年)の八月二日、長いこと意識不明の状態をつづけていた赤塚不二夫先生が、七十二歳で永眠した。脳出血で長いあいだ意識不明だったという。日本のマンガを築いてきたトキワ荘出身マンガ家が、またひとり消えた。合掌。

 ぼくが鈴木プロで編集者をしていた頃、講談社でオールカラー版の名作マンガ集が刊行され、『あしたのジョー』『巨人の星』『墓場の鬼太郎』『サイボーグ009』などとともに、『天才バカボン』もラインナップに加わった。
 いちど画用紙に原寸大でスミ線だけの清刷りを印刷し、これにマンガ家にもどして色をつけてもらうシステムである。このシリーズの仕事のため、ぼくは、あちこちのマンガ家のところに原稿を受け取りにいったり、色を塗ってもらうための清刷りを届けに行ったりした。
 フジオプロに『天才バカボン』の原稿を受け取りに出かけたのは、一九七〇年の一月か二月くらいだったろうか。まだ寒い季節だったのは、直後に、フジオプロで赤塚先生がとっていた昼食を見てもわかる。
 この少し前までフジオプロは、西新宿十二社交差点角の市川ビル内にあったスタジオゼロ(トキワ荘グループのマンガ家が結成したマンガとアニメのプロダクション。石ノ森章太郎、藤子不二雄、つのだじろう、赤塚不二夫、アニメの鈴木伸一といった方々が所属していた)に同居していたが、手狭になったためか、甲州街道と十二社通りが交わる西参道交差点ちかくのビルに引っ越していた。
 訪ねていったのは、ちょうどお昼どきで、スタジオにいたのは赤塚先生がひとりだけ。スタッフは昼食に出かけていて留守だった。
 赤塚先生は原稿のことがわからないというので、担当者がもどってくるまで、空いていた椅子で待たせていただくことにした。
 そこにそば屋の店員が、赤塚先生が注文した昼食の出前にやってきた。届けられた品は鍋焼きうどんである。
 先生は財布を忘れてきたそうで、机の引き出しを開けて、そこに入っていた小銭をかき集めはじめた。
 五十円玉や十円玉の小銭ばかりで支払おうとしたが、どうしても十円だけ足りないという。先生は、アシスタントの引き出しまで探したが、とうとう見つからない。
 サジを投げた先生は、ぼくの顔を見ると、ニコリと笑って、こういった。
「きみ、十円持ってたら貸してもらえない?」
 もちろん断れるはずなどない。
「はい、どうぞ」
 と十円玉を差し出すと、
「この次、来てくれたときに返すからね」
 赤塚先生は、目尻にトレードマークの小じわをたくさん浮かべて、ニカッと笑った。
 しかし、フジオプロに出かけたのは、これが最初で最後となった。その後、小学館漫画賞を受賞したときを含め、二~三回、お話しする機会はあったが、あのとき、お貸しした十円のことは、ついぞ言い出せないままだった。

 フジオプロに出かけた日の夜だったと思うが、ひとり会社でフジオプロから受け取ってきた『天才バカボン』の原稿を整理していると、コンコンと入口のドアがノックされた。
「どうぞ」と声をかけると、おずおずとドアが開いて、若い女性が顔と身体を覗かせた。
 なんと、ブラジャーにショーツ(といってもヘソの上まであるようなガードルのようなもの)をつけ、その上に薄手の半天を羽織っただけの姿である。どうやら階下のソープランドで働くソープ嬢らしい。
「あら、ほかの人はいないの?」
 半裸にちかい姿のソープ嬢が、事務所のなかを覗きながら訊いた。「店がヒマになったとき、いつもマンガを読ませてもらってるんだけど、いい?」
 そういえば、夜遅くに仕事をしていると、階下の店に勤めている女性が、ヒマつぶしに来ると聞いたことがあったが、このことだったのか。ぼくも深夜まで働くことが多かったが、こんな状況に遭遇するのは、この夜が初めてだった。
 ダメともいえる雰囲気ではなかったので、「どうぞ」と女性を室内に招き入れることにした。
 入ってきた女性は、ぼくの机の上にひろげられた原稿に目をとめた。
「『天才バカボン』だ! あたし、赤塚センセのマンガ、好きなのよね。むずかしい漢字を使ってないし、頭を使わなくていいから」
 女性は変なことをいいながら、勝手知ったる様子で部屋の奥に向かった。そこにはコミックスが並べられた書棚がある。
 女性は、何冊かのコミックスを手に取ると、空いていた席にすわって読みはじめたが、しばらくすると、車輪のついた椅子を滑らせて、ぼくのすぐ脇にやってきた。
「ねえ、おにいさん。この字、なんて読むの?」
 女性が開いていたのは青年コミックで、漢字のセリフにルビ(ふりがな)がついていなかった。
 どんな字だったかは記憶にないが、そんなにむずかしい漢字ではなかったはずだ。ぼくは怪訝な顔になっていたらしい。
「あたし、小学校も満足に通ってなくって。それで漢字が読めないのよ」
 女性は、ぼくの顔を見ながら照れたような笑顔で言った。
 身近にバーや芸者置屋を経営している人が何人もいて、子どもの頃から似たような境遇の女性たちに接していた経験があった。それで、ああ、そうか……と納得して、漢字を読んであげたのだが、そのときにはソープ嬢の興味は、机の上に置かれていた『天才バカボン』の原稿に移っていた。
「へえ。マンガって、こんな風に描かれているんだ……」
 ぼくの身体を肩で押しのけるようにして、原稿を覗き込んでくるのだ。ブラジャーの胸元は丸見えだし、石鹸の香りもプンと鼻をつく。仕事の最中に困ったシチュエーションになってしまったのだが、そこに助け船があらわれた。
 コンコンとドアをノックして顔を見せたのは、こちらもブラパンに半天姿のソープ嬢だった。
「おねえさん、お客」
 どうやら指名の客が来たらしい。
「ありがとう。また読ませてね」
『天才バカボン』の原稿を読んでいた女性は、そう言うと急いで廊下に出ていった。
 翌日、この出来事を社長たちに話すと、「そりゃ、コナをかけられてたんだ」とからかわれたが、残念なことにその女性は、目のやり場に困るような姿をしていたものの、こちらに迫ってくるといった気配は皆無だった。かなり年長だったせいか、こちらを子ども扱いしていたようにも思われた。
 このソープ嬢の女性は、その後も、二回ほど、夜遅くにマンガを読みにやってきた。ある夜、休憩時間が終わるからと女性が急いで出ていったあと、階下の方からガチャガチャと、ガラスの割れるような音が響いてきたことがあった。
 会社のオフィスへの出入りには、ビルの脇についた鉄の外階段を使っていた。その下はゴミ置き場で、ソープランドでお客に出したと思われる飲料の空き瓶が、山のように積まれていた。無造作に投げ捨てるためか、割れたガラス瓶も多かった。そこに誰かが空き瓶でも捨てたのだろうと思って、気にもとめずにいたのだが……。

「菅谷くん。夜中にときどき、マンガを読みにくるソープの女の子がいたろう? あの子が入院したの知ってる?」
 社長が、ぼくに声をかけてきたのは、数日後のことだ。
「いえ……」
「ソープランドの二階にある非常口と、ここに昇ってくる階段の間に隙間があるんだけど、そこから下に落っこちてしまったんだとさ」
「えーっ?」
 ぼくは驚いて声をあげた。
 ソープランド二階の非常口は、ドアを開くと、ぼくたちが会社への出入りに使っていた鉄の外階段につながっていた。そこに三〇センチくらいの隙間が開いていることは知っていたが、人間が通り抜けられるほどの幅には見えなかった。
 あのソープ嬢の女性は、そこから下に落ちたらしい。階段の下は、ガラス瓶の山だ。しかも割れて破片になったガラス瓶も多い。おまけに彼女は、ブラとパンツの身体に薄い半天を羽織っただけの半裸にちかい姿だった。
 血まみれになって割れたガラス瓶の上に横たわる女性の姿を想像したとたん、背筋がぞっとなったのを憶えている。

「おひさしぶり」
 入院していたはずのソープ嬢が、夜遅くに顔を見せたのは、最後にマンガを読みにきてから二ヶ月ほど後のことだった。
「あれ、入院してたんじゃないんですか?」
「あ、バレてたんだ」
 女性は、ペロッと舌を出して笑った。
「怪我は大したことはなくて、すぐに退院できたんだけど、傷が残っていたもので、お店に出られなかったのよ。ほら」
 女性は、両手を背中にまわし、半天の背をまくりあげた。ブラとショーツの間の背中に、まだたくさんの切り傷の痕跡が残っていた。
 この夜も彼女はマンガを読んで(やはり「むずかしいマンガは嫌いだから」といって、ギャグマンガを読んでいた)帰っていったが、その後は会ったことがない。ぼくは、宮谷一彦氏のところなどに詰めていることが多くなったうえに、まもなく鈴木プロを退社することになるからだ。
 赤塚先生の訃報に接したとき、反射的に思い出したのが、このソープ嬢のことだった。
 近頃の〈むずかしいマンガ〉を目にしていると、「頭を使わなくていいから……」という彼女の言葉は、案外、マンガの本質を突いていたのかもしれないと思ったりもする。

  つづく



  

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2008年08月28日

■『仮面ライダー青春譜』第48回

 第5章 見習い編集者の頃

●でかくてビックリ! 『アモン』の原稿

 鈴木プロでは、講談社以外の仕事も多数請け負っていたが、そのなかには少年画報社の青年コミックスの編集作業もあった。
 ぼくが原稿整理を担当したマンガは、「ヤングコミック」に連載されていた上村一夫氏の作品で、題名は『アモン』(リンク先は電子書籍販売のeBookJapan内にある『アモン』販売ページ)。上村氏にとっても自作の単行本化は初めてだったはずだ。
 上村氏のマンガ作品を最初に目にしたのは、作詞家の阿久悠氏と組んだ「平凡パンチ」連載の『パラダ』という作品だった。阿久悠、上村一夫両氏は、『月光仮面』や『隠密剣士』を制作していた宣弘社という広告代理店で、机をならべていたのだそうだ。
『パラダ』は、ポップなイラストで構成したデザインマンガのような印象が強く、あまり好きにはなれない作品だった(いま読み直すと、非常に面白い。高校生には理解できない内容だったのだろう)。
 ところが「ヤングコミック」に連載された『アモン』になると、青年劇画誌で連載されても違和感のないマンガらしいマンガになり、しかも、上村氏の描くキャラクターが、ちょっとゾクリとしそうな大人の色気のようなものを醸し出していた。
 バックの斜線の掛け合わせなども、宮谷一彦氏などの劇画とは異なる平板な描き方だったが、とてもきれいな線で引かれていた。
『アモン』は「ヤングコミック」で興味深く読んでいたので、単行本の編集を担当すると聞いたときは、「どんな原稿だろう?」と興味津々だった。
 ところが、「ネームのチェックをして」と社長から渡された『アモン』の原稿を見てビックリ。ふつう、マンガの原稿には、B4サイズの模造紙やケント紙、あるいは画用紙が使われているが、上村一夫氏の『アモン』には、なんとA3サイズのケント紙が使われていたのだ。
 原稿用紙が大きい理由は、原稿の拡大率にあった。マンガの原稿は、実寸の一・二倍から一・三倍ほどの大きさで描かれるのが一般的だが、上村氏の『アモン』は、一・五倍の大きさで描かれていたのだ。
 マンガの原稿を拡大して描くのは、原稿を縮小して印刷すると、画面がしまって見えるからである。当然、線も細くきれいになる。
「ヤングコミック」に掲載された『アモン』は、背景まで含めて線がきれいだったので、さぞや繊細なペンづかいをしているのだろうと予想していたのだが、実際に引かれたペンの線は、予想とは異なり、かなり太めでラフなものだった。雑誌に印刷された線がきれいに見えたのは、一・五倍という原稿の拡大率のおかげだったのだ。
 上村氏は、従来のマンガや劇画の世界とは無縁のデザイン業界からマンガ業界に参入してきたニュータイプのマンガ家だった。ペンづかいが独特なのも、旧来のマンガ、劇画の修行経験がないからだろう。しかし、デザインの仕事をしていたことで、印刷の仕上がりを想定した原稿づくりには長けていたのだろう。ぼくは、そんなことを勝手に想像した。
 作画に時間のかかるマンガ家の中には、少しで描く面積を小さくしたいということから、一割拡大(一・一倍)のサイズで描く人もいた。『タイガーマスク』の辻なおき氏や、怪奇マンガで人気を集めた楳図かずお氏が一・一倍派だ。
 圧倒的多数のマンガ家が一・二倍で描いていたが、石ノ森章太郎先生は一・三倍で描いていた。石ノ森先生門下の永井豪さんも一・三倍派だった。
 荘司としお氏のデビュー作が一・五倍だったというが、その後は編集者のアドバイスで一・二倍になったらしい。
 ぼくは石森プロで仕事をしていた関係で、デビュー作の『仮面ライダー』以降、石ノ森先生と同じ一・三倍の拡大率でマンガを描いてきた。
 ただし、「コロコロコミック」で『ゲームセンターあらし』を描くことになったとき、A5サイズの小型本ということもあって、一ページに詰め込む情報量を多くしたいと考え、原稿の拡大率を一・五倍にした。
 同時に、まだペンの使い方に慣れないアシスタントが引いた線でも、その欠点が出にくいことも考慮した。一・五倍で描くことを決めたのは、もちろん『アモン』のことを思い出してのことだった。

  つづく


  

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2008年08月27日

■『仮面ライダー青春譜』第47回

 第5章 見習い編集者の頃

●宮谷一彦氏の『海を見ていたジョニー』

 ここでふたたび五木寛之氏の小説が候補にあがった。こんどは『海を見ていたジョニー』である。五木氏は、原作の使用については即座にOKしてくれたが、あらためて注文がついた。五木氏は、松本零士氏の絵柄が好みではなかったようで、『海を見ていたジョニー』のマンガ化にあたっては、先に、マンガ家の絵を見せて欲しいというのだ。
「女性自身」の編集長と担当編集者から、ぼくと鈴木社長に呼び出しがかかった。呼ばれたのは西池袋の小料理屋の座敷で、マンガ家を誰にしたらいいかという相談だった。
 ぼくは、松本氏が五木氏の作品をマンガ化する際に原作の小説を読んだのがきっかけで、その頃、単行本になっていた大半の作品を読んでいた。高校生のときに「平凡パンチ」に連載されていた『青年は荒野をめざす』を読んではいたが、本格的に五木作品を読んだのは、「女性自身」の仕事が決まってからのことだ。
 中間小説というジャンルの小説を読む楽しみを覚えたのは、この仕事がきっかけだった。ミステリーやSFにも手を伸ばし、翻訳小説も読みふけるようになる。マンガ家志望者だったはずなのに、マンガなら会社で読めるという理由で、自分で買うマンガ雑誌は大人マンガ誌の「漫画サンデー」だけ(東海林さだお、黒鉄ヒロシ、秋竜山、砂川しげひさ氏など、当時の新進気鋭の大人漫画家の作品が好きだった)。
 あとは「小説現代」「オール読物」「小説新潮」などの中間小説誌を毎号購読し、松本清張や高木彬光、大藪春彦といったミステリーやアクション系の小説も、古本が多かったが、やはりむさぼるように読んでいた。
 本を読むのは通勤時(といっても二駅で五分だったが)と原稿取りや出版社への往復の電車やバスの車内が中心だった。
 マンガ家になって生活ができるようになったら、次は小説を書いてみたい……という妄想を抱くようになったのも、この頃のことだ。まだマンガ家にもなっていないのに、こんなことを考えるのだから、実にノーテンキな性格といわざるを得ない。
『海を見ていたジョニー (1967年)』『海を見ていたジョニー』も、もちろん読んでいた。デビュー作の『さらばモスクワ愚連隊』、直木賞受賞作の『蒼ざめた馬を見よ』を表題にした短編集二冊が出たあと、三冊目の短編集として発売されたのが『海を見ていたジョニー』だった。
 思春期の少年と黒人兵士の交流を描いた『海を見ていたジョニー』をマンガ化、劇画化できるとしたら、ひとりしかいない。ぼくは、そう確信していた。
「宮谷一彦さんでは、どうでしょう?」
 高校生の頃から、すっかり魅せられていたマンガ家の名前を出すと、鈴木社長が即座に賛成した。社長は、元『COM』の編集者で、『COM』の新人賞でデビューした宮谷氏を高く買っていたひとりだった。
「どんな絵を描くの? 見本を見せないといけないんだけど」
 編集長がいった。
宮谷一彦作品集(切り抜き)。「作品の切り抜きを持ってますから、それを届けます」
 ぼくは、そう約束してアパートに帰ると、押し入れに大事に保管していた宮谷一彦氏の作品ファイルを引っ張り出した。宮谷氏のデビュー作『眠りにつく時』(COM)以来の作品を綴じたファイルである。
 翌日、このファイルを光文社に届けると、「女性自身」の担当者が五木氏のところに見せにいってくれた。
 五木氏も宮谷氏の絵が気に入り、即座にOKを出してくれたという。こうして『海を見ていたジョニー』は、宮谷氏のペンでマンガ化されることが決定した。ネーム取りと原稿取りを担当するのは、もちろん、このぼくである。

『海を見ていたジョニー』の連載が決定したのはいいが、一回目の締切は、すでに目前に迫っていた。
 すでにネームを先行しなければならない状態である。ぼくはネーム取り用のトレペを持って、三鷹にあった宮谷氏の仕事場に向かった。
 宮谷氏は、三鷹駅から徒歩五分ほどのアパートの一室を仕事場に使っていた。間取りは2DK。一部屋が宮谷氏の仕事部屋、もう一部屋がアシスタントの仕事部屋兼二段ベッドの置かれた仮眠室になっていた。
 出かけたのは夜だったが、仕事部屋を訪ねると、ネームは一枚もできていなかった。出だしが決まらないのだという。
「ここで考えていてもダメだ。サウナに行こう」
 宮谷氏は、突然、立ち上がった。「キミもおいでよ。おごってあげるから」
「は、はい……」
 実は、サウナ風呂というものには入ったことがなかった。せっかくのチャンスなので、お言葉に甘えて、アシスタントと一緒についていくことにした。
 タクシーで向かったのは吉祥寺のサウナだった。サウナの入り方もわからないので、おどおどしながら宮谷氏とアシスタントの後についていくだけだ。
 サウナルームに入ると、宮谷氏は、じっと目を閉じたまま沈黙をつづける。どうやら『海を見ていたジョニー』のネームを考えているらしい。
 サウナで汗を流し、外に出てくると、宮谷氏は予想外のことを口にした。
「ネームは、今夜のうちにやっておくから、明日の朝、取りにきてよ」
 宮谷氏は、そう言い残して、アシスタントと一緒にタクシーに乗り込んでしまったのだ。吉祥寺の繁華街で置き去りにされたぼくは、しかたなく中央線と山手線を乗り継いで、会社にもどったのだった。
「ネームができるまで、ついていなけりゃダメじゃないか。もうギリギリなのは、わかっているんだろ?」
 会社で社長に怒られたぼくは、いったんアパートにもどり、翌朝早く、宮谷氏の仕事場に向かった。
 宮谷氏は不在でアシスタントしかいなかったが、仕事机の上に置かれた原稿用紙には、きちんとネームが入っていた。
 宮谷氏が使うマンガの原稿用紙は、厚手の模造紙で、この上にトレペをかさね、吹き出しの形とネームを写し取っていく。
 ぼくはネームを取るのにボールペンを使っていたのだが、筆圧が強くて原稿用紙に跡がついてしまうため、あとで宮谷氏から怒られることになる。その後のネーム取りは、柔らかい鉛筆に変更した。
 写し取ったネームは、赤字で級数指定と小文字指定(促音を○で囲む)をし、市ヶ谷の大日本印刷の工場まで持っていく。ここには出版社各社の出張校正室があり、校了間際になると、何人もの編集者や校正マンが詰めていた。
 ここで「女性自身」の担当編集者にネームを取ったトレペを渡し、先に写植の手配をしてもらうのだ。
(『海を見ていたジョニー』の原画数ページが、こちらのWebサイトで見られる。マンガファンで三鷹在住のミュージシャンの方のサイトである。ネームの指定がされたトレペがかかったものもあるが、ぼくの字なのかどうか、確証はない)
『海を見ていたジョニー』は、一回が八ページくらいだったが、なんといっても緻密な絵で知られる宮谷氏の原稿である。とても一晩では終わらない。
 しかも宮谷氏は、編集者が仕事場に張りついていないと〈逃げられる〉という噂もあった。そのためか社長からは、「ネームを大日本印刷に届けたら、会社にはもどらなくていいから、原稿が上がるまで宮谷クンの仕事場に張りついていてくれ」と厳命された。おかげで週のうち二日から三日は、宮谷氏の仕事場に出かけ、最後の一日は、原稿が完成するまで徹夜につき合うのがローテーションとなった。
 原稿が完成すると、三鷹駅から中央線の快速電車で四谷まで行き、ここで総武線各駅停車の電車に乗り換え、次の市ヶ谷で下車して、大日本印刷の工場に飛び込むのが、毎週の校了日の日課となった。〈劇画〉のページは、印刷インクが紺色の別ぺージ仕立てで、他のページよりも校了が早かった。
 宮谷氏の担当になったおかげで、会社に出勤するのは週のうち半分くらいになった印象がある。それでも残る日は、「少年マガジン増刊」やコミックスの編集をつづけていた。

  つづく


  

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