2008年09月26日

■『仮面ライダー青春譜』第64回

 第7章 『仮面ライダー』騒乱記

●ゴキブリ大作戦?

 一九七二年は、「テレビマガジン」一二月創刊号からスタートした『仮面ライダー』と商品の仕事に追われたまま年が暮れることになった。正月明け一番の締切を抱えていたため、年末年始の休みも取れそうになく、帰郷も断念して、仕事に専念することにした。
 そんな息子を不憫{ふびん}に思ったのか、大晦日になって突然、母がお節料理を持ってやってきた。予告なしの訪問だったため、こちらは大あわて。寝床は万年布団の状態で、机と布団以外の場所は、積み上げた本や雑誌で畳が見えない状態だったからだ。
 母は、そんな状態も予想していたようで、割烹前掛けに掃除道具まで持参でやってきた。
 とりあえず大晦日に原稿の催促はなさそうだったので、掃除をする間だけ仕事は中断することにした。掃除の邪魔だといわれ、部屋の外に出たのだが、アパートの廊下は、まだ昼間だというのに暗く静まり返っていた。
 十室くらいあった部屋の住人は、全員が学生だった。そのため冬休みの期間になると、みんな帰郷してしまい、どの部屋も留守になっていたのだ。
「きゃっ!」という母の叫び声が聞こえてきたのは、ぼくが部屋の外に出た直後のことだった。
「どうしたの?」とドアを開けると、母が入口の台所の壁を指さしていた。半間のスペースに小さな流しとガスコンロがひとつあるだけの台所で、壁に近い鴨居の部分に四〇ワットの電球がぶらさげてあった。
 夜も昼もなく仕事をしているため、この電球は、ほぼ二十四時間、点灯したままだった。
 その電球の光がまばゆくて、気づいていなかったのだが、電球の向こうの壁に、何やら黒い影のようなものが見えた。電球をどけてみてビックリ! そこにいたのは、なんと、チャバネゴキブリの集団だったのだ。
 アパートの住人は、ぼくひとりだけになっていた。年末の寒い季節だというのに、他の部屋は暖房も入っていないはずだ。そこでアパート中のチャバネゴキブリが、ぼくの部屋にやってきて、台所の隅で二十四時間点灯している電球の近くの壁で、暖をとっていたものらしい。古いアパートだったせいで、柱と壁の間に隙間が開いていたが、そこにもチャバネゴキブリは詰まっていた。
「薬局に行って殺虫剤を買ってきなさい」
 母に命令されて近くの商店街に行き、眠気覚ましのアンプルでお世話になっていた薬局に行くと、真冬だったがスプレー式の殺虫剤が売られていた。
 すぐにアパートにもどって殺虫剤を噴霧すると、壁からボロボロとチャバネゴキブリが落ちてきた。
 壁と柱の隙間にも噴霧すると、その隙間から、ゾロゾロゾロゾロとゴキブリが湧き出し、台所と反対側の畳の上にボトボトと落ちた。
 数十匹なんてものではない。母はホウキとチリトリでチャバネゴキブリを集めたが、プラスチックのチリトリに山盛りで三杯ちかくもいた。たぶん数百匹はいたのではなかろうか。
 しかし、こんなにたくさんのゴキブリと同居していたなんて、まるで気づいていなかった。部屋のことになんて、かまっていられなかったせいでもあるが、われながら実にあきれた話である。もちろん母にも、不潔すぎると説教された。
『ゲームセンターあらし』「ゴキブリ大戦争」の巻より 後年、『ゲームセンターあらし』で描いた「ゴキブリ大戦争」の巻は、このときの体験がベースになったものだ。どんなものでもネタにする。転んでもタダでは起きないのがマンガ家なのだ。エヘン!(いばるほどのことではありませんが……)

  つづく


  

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2008年09月20日

■『仮面ライダー青春譜』第63回

 第7章 『仮面ライダー』騒乱記

●画竜点睛と高熱と

 あれは「テレビマガジン」の三回目あたりの原稿を仕上げたときだったろうか。二日くらい寝ないまま石ノ森先生のお宅に向かい、原稿の監修を受けると、先生が色鉛筆でタッチをつけてくれただけでOKになった。こちらも要領を呑み込みはじめたせいか、次第に直しも少なくなっていた。
 マンガのカラーページでは、二色でも三色でも、朱色の絵の具を水で薄めたものをよく使う。白い紙の上に薄い朱色を塗ることで、いわゆる肌色を表現するのだが、ただムラなく平坦に塗ったのでは、顔に立体感が出ない。そこで髪や顎、鼻の下といったの陰の部分に、茶色や焦げ茶色で影をつけてやる。頬や鼻の先端には、少し濃いめの朱色でタッチをつける。これだけでずいぶん立体感が出るものだ。
 石ノ森先生は、焦茶色の色鉛筆を取ると、ぼくが茶色で塗ってあった陰の部分をゴシゴシと塗り、さらに陰影をつけた。そして赤の色鉛筆を取ると、こんどは目の端や眉間にタッチをつけた。これだけで人物が驚き、顔を紅潮させている感じがグンと増した。
 さらに人物の立つ地面にも焦げ茶色をゴシゴシゴシ。人物の影を濃くすることで、より人物が引き立つのだ。このあたりの作業は、顔を立体的に見せる女性のメイクと共通したものがあるような感じがしている。
『ミュータントサブ』「白い少年」の巻より それにしても石ノ森先生ほど、〈光と影〉にこだわったマンガ家はいないのではなかろうか。スクリーントーンも斜線の掛け合わせもなかった時代、モノクロの活版ページで光と影を描写するのは至難の業でもあった。そのむずかしい表現を石ノ森先生は、楽しんでいるかのようにマンガの中に採り入れていた。たとえば『ミュータントサブ』の「白い少年」がそうだった(画像をクリックすると拡大表示されます。『ミュータントサブ』〈石ノ森章太郎/コダマプレス/1966年7月刊〉)。
 ピカッ! という目映い光が当てられたときは、ベタだけか、せいぜい定規の平行線だけで影の部分をつくり、反対に白い部分で強烈な光をあらわしていた。このような光と影に対するこだわりは、カラーページでも発揮されていた。
「ビッグコミック」に連載された『佐武と市捕物控』でも、真っ白な絵の中に、黒い影を描くことで、真夏の強烈な日差しを表現していたことがある。石ノ森先生は、本当に「光と影のマンガ家」だった。
 ぼくも『ライダー』の最初の頃は、必死に先生の絵柄を真似ようとしていたものだ。
 しかし、先生の手直しを受けているうちに、あるいは実際に下絵を描き、ペン入れをする先生の仕事ぶりを見ているうちに、「石ノ森先生のマネなんて、できるわけがない」と確信するようになった。石ノ森先生の絵は、光と影の描写以上に、そのペンの描線に特徴があったからである。
 先生は、下絵のときから線が走っている。クロッキーでも描くように、何本もの線を引き、そのうえでペン入れをするのだが、ペンの線は、下絵をなぞるわけではない。下絵の延長でもあるかのように、猛烈なスピードでペンを走らせるのだ。
 だからペンの線そのものにスピード感と躍動感があった。
 子ども向けマンガの多くは、きっちりと下絵を入れ、その上を丁寧になぞるようにペンを入れる例が多い。少年誌に掲載されたマンガや劇画の絵には、力を入れたり、〈止め〉を入れることで、力感を出すものが多かった。
 しかし、石ノ森先生が引くペンの線は、絶えず走り、流れ、そして揺れていた。
 同じ長髪のキャラクターとして、『伊賀の影丸』と『サイボーグ009』を比較してみても、それはよくわかる。影丸の方は、顔のアングルが変わっても、いつも、ほぼ同じ髪型のままだ。ポマードかグリスで固めてあるのではないかと思えるほどである。
 ところが009の長髪は、いつも風でなびいている。首に巻いた長いマフラーもだ。定形がないため、子どもが似顔絵を描くのもむずかしい絵になっていた。石森作品に憧れているマンガ家のタマゴやアシスタントも、この線ばかりはマネができず、その結果、他のマンガ家には多いエピゴーネンが、ほとんど出ない結果にもつながった。その後、シュガー佐藤くんのように、そっくりの絵が描ける人が出てきたが、彼の絵は、一九七〇年以降に、先生がペンの線に力感を加えるようになってからのものだ。

 話をもどす。
「画竜点睛」という言葉があるが、ぼくが描いた『仮面ライダー』のカラー原稿も、石ノ森先生が色鉛筆でちょっと手を加えただけで、絵に立体感がつき、さらに人物の感情までもが強調された。
「へえ……!」
 と驚き、感心しながら、ひとつひとつマンガの技法を学び、盗んでいったように思う。
 その日も、いつものように原稿に石ノ森先生の手を入れてもらい、ようやく完成した原稿を仕事場に預けた後、「ああ、やっと寝られる……」と考えながら先生の自宅を辞したとたん、なんだか足元がフワフワして、雲の上を歩いているような感じになった。
 もう何日も満足に寝ていなかったからだろう。しかも風邪気味で、少し熱っぽくもあったのだが、桜台の駅に向かって歩いているうちに、次第に身体が火照りはじめ、かっかと熱くなってきた。しかも喉が渇く。途中の駄菓子屋でアイスキャンデーを買って食べたが、それくらいでは身体の火照りも喉の渇きもおさまらない。
 昼間だったのでバスに乗り継いで帰るつもりだったのだが、歩いているうちにしだいに頭がボンヤリし、クルクルと目がまわってきた。睡眠不足のせいにちがいない。そこで無理をしないことに決め、タクシーをつかまえて帰ることにした。
 アパートの前でタクシーを降り、二階につづく階段を這うようにして昇りはじめたが、目まいが止まらない。先ほどまでよりひどくなっている。これはヤバイかもしれない――と思って部屋に置いてあった健康保険証を取り出すと、這うようにして、アパートの前にあった小さな診療所に向かった。
 身体がだるくて目がまわると受付で訴えると、体温計を渡された。体温計を腋に挟んだまま診察室に入る。椅子に座ると、老医師が脇から体温計を引き抜いて、目盛りを見た。
「四〇度を超えてるじゃないか。風邪だね。よく寝て身体を休めなさい」
 しかし、休んでなんかいられない。「テレビマガジン」の『仮面ライダー』は終わったものの、商品化権の仕事が石森プロで待っていた。
「すみません。仕事があって寝てられないんです」
 ぼくは、かすれる声で必死に訴えた。
「わかった、わかった。じゃ、眠くならない注射を打っておくから」
 老医師は、アンプルから注射器に薬液を吸い上げると、ぼくの腕にプチュン! 薬をもらってアパートの部屋にもどり、布団の上に倒れ込むと、たちまち昏睡状態になった。

「もしもし、もしもし」
 いきなり誰かに揺り起こされたのは、夜になってからだった。
 はっと目をひらくと、ヘルメットをかぶった見知らぬ中年の男性が、布団の枕元で膝をついていた。この男性は、知らないうちに勝手に部屋の中に上がり込んできたらしい。
 どうやらドアの鍵をかけるのを忘れていたらしい。だからといって、勝手に部屋に上がってくるのは、いかがなものか……などという細かいところまで頭は回っていなかった。
 その男性は、ぼくの目の前に紙切れを突き出していった。
「電報です」
 ヘルメットの男性は、電報配達員だったのだ。
「あ、どうも、ありがとうございます」
 ぼくは、モーローとしたままの頭で電報を受け取った。
「よかった。死んでいるんじゃないかと思って……」
 配達員は、そんなことをいいながら部屋から出ていった。
 布団に寝たまま電報を開くと、そこにはこう書かれていた。
「シキユウ オイテ゛コウ イシモリフ゜ロ」
 連絡がないので不審に思って電報を打ってきたのだろう。ぼくの部屋には、まだ電話がついていなかった。
 ――ああ、連絡もしないで事務所に行かないから、マネージャーのKさんが心配して電報を打ってくれたんだな……。
 と思ったものの次の瞬間には、また眠りの底に落ちていた。

「すがやちゃん!」
 再び誰かに揺り起こされて目を開くと、石森プロの仕事を手伝っているYさんが枕元にいた。
「おー、よかった。生きてた、生きてた。連絡がないからどうかしたんじゃないかと思って、見にきたんだ」
 カーテンを開きっぱなしの窓の外は明るくなっている。それどころか、もう午後になっていた。時計を見ると昨日の夕方から二十一時間眠りつづけていたことになる。昨日、診療所の老医師が打ってくれた注射は、眠くならない薬ではなく、眠くなる薬だったらしい。
 しかし、ぐっすり眠ったせいか、まだ少しふらつきはしたが、なんとか起きることはできた。
「仕事がたまっているから急いで」
 ぼくは、Yさんにタクシーで石森プロに連行され、そのまま、また徹夜の連続に突入することになった。
 この強引なYさんは、後に黒崎出版で創刊された「テレビランド」の編集者となり、「テレビランド」が徳間書店に買収されると、雑誌と一緒に移籍。のちに徳間書店の一般書籍部門の出版部長になったときは、実用書を何冊か書かせていただき、そのうちの一冊は、十年以上も増刷を続けるロングセラーになった。Yさんは、その後、独立して小さな出版社を立ち上げ、ユニークな本を出し続けている。

  つづく

  

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2008年09月18日

■『仮面ライダー青春譜』第62回

 第7章 『仮面ライダー』騒乱記

●石森プロは梁山泊?

「テレビマガジン」の『仮面ライダー』は、自分のアパートで描いていたが、その他の商品化権(マーチャンダイジング)関係の仕事は、西新宿にあった石森プロの事務所に通って描くことが多かった。
 いや、〈通う〉という表現は正しくない。いちど事務所に行ったが最後、一週間くらいは帰れなくなるのは当たり前だったからだ。その間、着の身着のまま、風呂にも入らない生活である。
 風呂に入らない生活は、江波先生のアシスタントで慣れっこになっていたが、それも限度がある。一週間、二週間と風呂に入れなくなると、さすがに頭や身体がかゆくなり、深夜、歌舞伎町あたりのサウナに行くようにもなった。サウナは銭湯に比べると値段が高かったが、毛穴から汗が吹き出すせいで、全身がスッキリする。このサウナの味を覚えたのは、宮谷一彦氏に連れて行ってもらったのがきっかけだった。
 サウナで汗を流し、新しい下着に着替えてスッキリすると、また石森プロにもどって机に向かう。そんな毎日がつづいていた。絵本にハンカチに茶碗にカップ、ノートに色鉛筆の箱に……と、仕事は途切れることを知らない状態だった。あいかわらず来客も多く、応接間での麻雀も、毎晩のようにつづいていた。
 石森プロは、まもなく代々木に仕事場を移すが、新しい事務所に移っても事情は変わらなかった。二階建ての事務所は、以前、学生寮だったとかで、部屋がたくさんあった。ここには仕事の関係者だけでなく、石森章太郎ファンクラブのメンバーも、毎日毎晩のように寄り集まっていた。
 ファンクラブ会長のAとは、お互い高校生のときに知り合った。場所は新宿にあったマンガ喫茶の「コボタン」。ここで石森章太郎ファンクラブに加入させられた。お互い学生服姿だった。彼は、いったん就職した後に大学に入り直し、のちに出版社に就職した。他の副会長二名は徳間書店に入って「テレビランド」や「アニメージュ」の編集者になった。このうちのひとりSは、やがて学研に移り、「コミック・ノーラ」を立ち上げる。もうひとりのSは、すでに故人となった。
 学生だった彼らは、毎晩集まってきては麻雀大会。ぼくも麻雀を教えられたのはいいが、ムシり取られてばかりいた。
 東映の平山亨プロデューサーも毎日のように顔を出していた。さらに編集者も来れば、マンガ家、作家のタマゴも来る。石ノ森先生のアシスタントになるはずだった山田ゴロちゃんも、ナルちゃんこと成井紀郎クンも、いつのまにか石森プロの住人のようになっていた。
『仮面ライダーV3』が乗るバイクの分解図を描いて持ってきたのはクリスタルアートの宮武さんだった。一緒にきた強そう(?)な学生は、永井豪ファンクラブの事務局長だといっていたが、SFにも詳しいようで、ぼくもSFを好きで読んでいるというと、「五〇年代SFを読まない人間にSFファンを名乗る資格はない」といわれた。
『宇宙の戦士』(ハインライン) オススメの作品を訊ねたら、即座に返ってきたのが「ハインラインの『宇宙の戦士』」という言葉。数日後、この作品を古書店で見つけ、すぐに購入した。
『宇宙の戦士』を推薦してくれた学生は、まもなくSF作家としてデビューする。デビュー作は『クラッシャージョウ』。ペンネームは高千穂遙となっていた。最近は『自転車で痩せた人』が、ぼくのバイブルである。
『底辺絵巻の画工たち』(共同報告・情報キャンパスV/産報/1972年1月刊) フリーの編集者やライターも多く出入りしていたが、そんな人たちがマンガ・劇画業界の裏話を書くことになり、ネタの提供にも協力したこともある(『底辺絵巻の画工たち』という本になった。間違いが多かったけれど)。
 石森プロに出入りしているライターのひとりだったIさんが、まもなく企画者104を設立し、いまにつづく戦隊物を生み出す立役者のひとりになる。とはいっても創設者のIさんは、文を書いたり企画を立てることよりも、料理のことを話すのが好きだった。その趣味(?)が昂じてか、さっさと社長業をやめると伊豆に和食のお店を出し、いまは温泉旅館の経営者。ときどきテレビの旅番組で、温厚な笑顔を拝見することがある。
 東映作品の『仮面ライダー』『変身忍者嵐』などは、撮影が終了すると、ラッシュと呼ばれる音声のないフィルムが編集され、これに音楽や効果音がかさねられ、俳優たちがセリフを録音するアフレコがおこなわれる。音入れの前のラッシュや、音入れの終わった初号フィルムの試写は、代々木の石森プロのすぐ近く、甲州街道の反対側に立つ太平ビルの上、太平スタジオでおこなわれていた。
 東映側の関係者、出演者、そして『ライダー』や『嵐』のマンガや情報ページを掲載する出版社の人たちが揃って試写を見るのである。
 撮影用の衣装を着たまま試写会場に来る俳優もいた。子役だった林寛子は、まだ小学生だったのに、網タイツを履いた太股がまぶしかったのを憶えている。
『仮面ライダー』の試写のとき、爆笑と失笑が起こったことがある。ぼくが、その少し前、「テレビマガジン」連載のマンガで使ったネタ(冒頭、十字架にかけられたライダーに、ショッカーの怪人が爆弾を投げ、殺してしまうショッキングなシーンから始まるのだが、実は、このライダーは人形で、怪人が、「この人形のように、本物を殺すのだ」と手下の子どもに命令する……という内容)が、そのままテレビの『ライダー』で使われていたためだ。
テレマガ版『仮面ライダー』「こんちゅうはかせカブトロングの巻」P1。
テレマガ版『仮面ライダー』「こんちゅうはかせカブトロングの巻」P2~3。
テレマガ版『仮面ライダー』「こんちゅうはかせカブトロングの巻」P4。
「テレビマガジン」版『仮面ライダー』「こんちゅうはかせカブトロング」の巻。この冒頭シーンの流れが、そのままテレビに使われた。(画像をクリックすると拡大表示されます)
 テレビにマネされるほどショッキングなシーンだった……というわけで、担当編集者のKさんにも、「アイデアがよかったからだね」と誉めていただいた。無断借用だったが、テレビのスタッフも身内も同然のようなものだったし、マネされて誇らしい気持ちのほうが強かった。それ以前に、ぼくが描くマンガのアイデアも、たいてい何かをヒントにしたり参考にしたものだ。無から生まれたオリジナリティなど皆無に近いのではないか。ぼくは、そう考えている。
 毎日がお祭りみたいな状態で、睡眠不足がつづいていても、石森プロにいたほうが、仕事も便利だったし、何よりもおもしろかった。そのため一カ月以上もアパートに帰れないことがあり、大家さんが石森プロまで家賃を取りにきてくれたこともあった。
「テレビマガジン」の『仮面ライダー』を描くときだけはアパートにもどっていたが、まだ電話も入っていなかった。

  つづく

  

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2008年09月14日

■『仮面ライダー青春譜』第61回

 第7章 『仮面ライダー』騒乱記

●「テレビマガジン」で『仮面ライダー』連載(2)

 ネームはOKになったものの、下絵でダメが出た。ギャグマンガの「さるとびエッちゃん」のカット的な絵を描いているときは、さほどの問題もなかったのだが、『仮面ライダー』ではアクションシーンが増える。それもカッコいいアクションシーンでなくてはならない。ところがぼくは、その重要なアクションシーンが描けなかったのだ。
 情けないほどデッサン力がなかったため、先生が「ぼくらマガジン」と「少年マガジン」に描いた『仮面ライダー』を真似て描いていたのだが、バランスがおかしいうえに、キャラクターも貧弱で、これには先生も頭を抱えてしまったようだった。
 だからといって先生が自分で描いている時間などあるわけがない。何がなんでも、ぼくが描くしかないのだ。先生から下絵にダメが出されると、急いでアパートにもどり、必死に描き直す。その間に、締切はどんどん迫ってくる。なんとか徹夜して下絵を入れてはみたが、どうしても描けないコマが出てきてしまったのだ。マンガの冒頭で、一文字隼人が子どもを抱えたまま、バイクで電車の上を飛び越えるシーンがあるのだが、この絵が描けないのだ。
 いくら手直ししてもデッサンはゆがんだまま。あまりにも情けなくて泣きたくなったが、泣いたからといって締切を待ってもらえるわけではない。こうなったら頼るのは、やっぱり石ノ森先生だ。
 その頃住んでいたのは東高円寺のボロアパートだったが、原稿を抱えて外に出ると、タクシーをつかまえた。行き先は桜台の駅前にあるラタン。先生は、この店の専用席にネームを入れにくる。そこをつかまえて下絵を入れてもらおうという魂胆である。
 東高円寺でタクシーを拾い、環七経由で桜台に着くと、ラタンでネームを待つ編集者と一緒に先生の到着を待ち受けることにした。
 午後になって先生がラタンにやってきた。ぼくは先生がネームにかかる寸前に、こちらの原稿を差し出した。
「すみません。一文字隼人が子どもを抱えている絵が描けないんです。下絵を入れてください!」
「しょうがない奴だなあ……」
 と呆れ顔になりながらも先生は、一文字隼人が子どもを抱えたままバイクでジャンプするシーンの下絵を鉛筆で描きはじめてくれた。
石ノ森章太郎先生に下絵を入れてもらった『仮面ライダー』の1コマ。
 石ノ森章太郎先生に下絵を入れてもらった一文字隼人が子どもを抱えているシーンの絵。
『テレビマガジン70's ヒーロー創世記メモリアル』には、「原作者の石森章太郎氏が一~四ページの下描きを行っている」とも書かれているが、実際に石ノ森先生に下絵を入れてもらったのは、この一カットだけである。
 周囲のテーブルには、ネームを待つ編集者が憮然とした顔ですわっていた。だが、こちらも締切が目前に迫っているのだ。ぼくは編集者の視線を無視して、先生が動かす鉛筆の先だけを見つめていた。
「ありがとうございました」
 下絵が終わると同時に原稿をいただき、頭をさげる。
「気をつけてな」
 ラタンを飛び出すぼくの背中に、先生が声をかけてくれた。
 タクシーでアパートに帰り、一気にペンを入れた。ペン入れが終わったのは夜になってからだ。ふたたびタクシーに乗り、こんどは先生の仕事場に押しかけてチェックを受ける。ここでもういちどダメ出しがあり、数ページを下絵から描き直し。翌日、再度ペン入れをした原稿を持って先生のところにいくと、
「これなら、まあ、いいか。とりあえず色を塗ってみな……」
 と、ようやくOKが出た。この時点で、最初にいわれていた締切日は、とうに過ぎている。
 この頃から近所の薬局で眠気覚ましの薬を買っては愛飲するようになっていた。親指の先くらいの小さなガラス瓶に入った薬で、コーヒーを煮つめたような味がした。この空き瓶を六畳一間の部屋の鴨居に並べては、その数が増えていくのを楽しみにした。いかにも寝ないで頑張っている気がしたからだ。
 しかし、あまりにも同じクスリを買いにいったせいか、ついに近所の薬局のオバサンが、「あなた、クスリばかり飲んでいるのは身体に毒よ。こんなの飲むのはやめなさい」と売ってくれなくなってしまったのだ。このとき愛飲していた眠気覚ましのクスリが劇物に指定され、発売中止になったという記事を新聞で読んだのは、その直後のことだった。
 眠気と戦いながら徹夜の連続で原稿に色を塗り、先生の自宅に持っていったのは、ネームを開始してから二十一日目の昼過ぎのことだった。
 起き抜けの先生は、ぼくの原稿を見るなり顔をしかめた。
「うーん、お前の色はケバケバしいなあ……」
 と眉をひそめられてしまったのである。
 ――また描き直しかあ……。し、締切が……。
 と内心ガックリ。
 すると先生は、「すがや、そこのパレットと筆を取ってくれ」とアシスタントの机を指さした。
「は、はい」
 パレットと筆と、そして水入れも一緒に先生の机の上に運ぶと、「お前、背景の森や山は、絵の具を生(き)のままで塗ってるだろ?」
「はい。そのほうが、きらびやかでいいかと思って」
「だから、パッと見たときに原稿がチカチカ見えるんだよ。人物からバックまで、全部、同じ調子で色を塗っていたら、人物が映(は)えなくなってしまうじゃないか」
「あ、そういわれてみればそうですね……」
「『さるとびエッちゃん』の絵のときは、もっと上品な色づかいをしてたから、大丈夫だと思ったんだけどなあ……」
 といいながら先生は、パレットに黄緑色と茶色の絵の具を出し、それを混ぜ合わせていく。そして、そのトーンの落ちた黄緑色を、ぼくが塗ってあったケバケバしい森や草の生えた土手の上に塗っていった。
 すると、たちまち背景の彩度がすっと落ち、画面に奥行きが出た。
「締切は?」
 筆を走らせながら先生が訊く。
「も、もう過ぎています……」
「だったら、原稿はここに置いていきな。こっちに取りに来てもらうように連絡しとくから」
 先生は、筆を置いていった。「まだ仕事があるんだろ?」
「は、はい……」
 テレマガの「仮面ライダー」に取りかかって三週間。この仕事に専念していたために、商品用の絵を描く仕事がたまってしまっていた。
 もう何日も満足な食事をとらず、ろくに寝ていなかったためか、頬はこけ、目の下に黒いクマができている状態だった。しかも風呂にも入らず肩まで伸びた髪もフケだらけの状態だ。
「だったら次の仕事にかかる前に、少しでもいいから寝ておきな。その前に、ちゃんと栄養のあるものも食べるんだぞ」
 そういって見送ってくれた先生の目は、優しく微笑んでいた。

  つづく



  

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2008年09月12日

■『仮面ライダー青春譜』第60回

 第7章 『仮面ライダー』騒乱記


●「テレビマガジン」で『仮面ライダー』連載(1)

 石森プロで『さるとびエッちゃん』の商品用の絵を描きはじめた直後、講談社から「テレビマガジン」という児童誌が創刊されることになった。「週刊ぼくらマガジン」の休刊を受け、『仮面ライダー』をはじめとする〈テレビもの〉を中心に、新たに創刊されることになったものだ。
 当初、テレビの『仮面ライダー』は、キー局(毎日放送)のある関西では視聴率が高かったが、関東では視聴率の取れない西高東低の傾向がつづいていた。しかし、藤岡弘の負傷によって佐々木剛に主役が交代し、仮面ライダーが二号になったあたりから、関東でもジワリジワリと視聴率が上がりはじめていた。「テレビマガジン」の創刊は、そんな事情を背景にしたものらしい。
 当然、企画の中心は『仮面ライダー』であり、連載マンガもスタートすることになったが、石ノ森先生の仕事量は、すでに限界に達していた。
 連載マンガは『仮面ライダー』(ぼくらマガジン→少年マガジン)、『原始少年リュウ』(少年チャンピオン)、『さるとびエッちゃん』(少女フレンド)、『CMコマちゃん』(漫画サンデー)、『アマゾンベビィ』(プレイコミック)などの連載のほか、新聞、月刊誌での読み切りや連載、さらには描き下ろしの長編から絵本まで、月に五〇〇ページ以上の原稿を描き、さらには『仮面ライダー』をはじめとするテレビもののキャラクターデザインや打ち合わせまで、ヤマのような仕事が詰まっていた。
 そこで「テレビマガジン」連載の『仮面ライダー』は、石森プロでマンガの執筆を担当することになったのだが、誰に描かせようかということになったとき、石ノ森先生が突然、「すがやにやらせたら?」と、ぼくを指名してくれたらしい。
 それまでギャグマンガの『さるとびエッちゃん』の絵しか見てもらっていなかったのに、どうした風の吹きまわしだろう。石森プロでは何人もの同じようなマンガ家予備軍が仕事をしていたが、そのなかで、ぼくが一番絵がヘタだという定評があった。自分でもそう思っていたので、絵がヘタだといわれることには不満はなかったが、ぼくの絵で最後まで描ききることができるのかどうか、そちらの方が心配だった。
「ホントにぼくでいいんですか?」
 おそるおそる訊ねてみると、石ノ森先生はニッコリ笑ってこういった。
「絵というものは、手さえ動かしていれば、絶対にうまくなる。とにかく人の二倍も三倍も描いてみることだ。そうすれば必ず結果はついてくる。なんでもチャンスだと思って、とにかくやってみな」
「は、はあ……」
 もちろんチャンスにはちがいない。ぼくは、おどおどしながらも、ありがたく引き受けることにした。そのうえに石ノ森先生に図々しいことを申し出た。
「あの……。テレビの脚本をそのままダイジェストにしても面白くないと思うので、ストーリーはオリジナルにさせてもらえませんか?」
 当時、児童向け雑誌でテレビの特撮ドラマなどをコミカライズするときは、テレビの脚本に沿った内容にするのが当たり前だった。しかし、短いページ数でテレビのダイジェスト版を描いても、あまり面白くなりそうにない。そこで、こんな大胆な提案をしてみたのである。
 ところが、石ノ森先生は、
「いいんじゃないの。そのほうがストーリーづくりの勉強にもなるし」
 と、あっさり許可してくれたのだ。
 ――さすがは先生、話がわかる!
 と張り切って、意気揚ようとネームに取りかかったのだが、これが地獄のはじまりになろうとは、このときはまだ夢にも思っていなかった。

テレビマガジン版『仮面ライダー』「テレビマガジン」の創刊号は一九七一年十二月号。発売は一ヶ月前の十一月一日だ。原稿にとりかかったのは九月のはじめ、まだ暑い季節だった。
 一九九八年末に講談社から発売された『テレビマガジン70's ヒーロー創世記メモリアル』を読むと、この第一回は、ぼくと細井雄二、土山よしきさんの三人で担当したことになっているが、そんな事実はない。ネームから下絵、ペン入れ、色塗り、そして仕上げまで、すべてぼくひとりで担当した。
 第一回は、三色と二色のオールカラーで計一八ページ。主人公は、二号ライダーの一文字隼人だ。テレビでは佐々木剛が演じていた主人公である。
 一号ライダーの本郷猛を演じていた藤岡弘が、撮影中のバイクの事故で重傷を負ってしまっため、二号ライダーの登場となったものだ。
 登場する怪人はアリガバリ。踏切で電車に跳ねられそうになっている子どもを一文字隼人がバイクで救うシーンからはじまっていた。
 このネームは石ノ森先生が「ぼくらマガジン」や「少年マガジン」に連載していた『仮面ライダー』を読み返し、自分では「似せた」つもりでコマを割り、吹き出しの位置を決め、セリフを書き、鉛筆でラフの下絵を入れていったものだ。
 このネームを持って桜台の先生のお宅に行き、監修を受けたのだが、この段階で直しが出た。ネームのOKをもらったのは三回目のことだった。
 最初にいいわたされた締切日が、どんどん迫ってくるため、こちらは気が気でなくなってくる。三回目のネームのときには、すでに下絵を入れて持参した。
 ネームと下絵の段階での監修の要点は、以下のようなものだった。
〈児童向けのアクションマンガなのだから、構図に動きをつけろ〉
〈人物を四方の枠線と平行にならないように配置すると、動きのある構図になる。つまり、人物が四角いコマに対して斜めになるようにすること〉
 ……といったことである。
 ストーリーについては、とくに問題にはされなかった。児童誌とはいえ幼児誌に近いため、複雑なストーリーは要求されていなかったからだろう。ぼくが独自のアイデアを突っ込んでいくのは、もう少し後のことになる。

  つづく



  

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