2008年10月31日

■『仮面ライダー青春譜』第71回

 第7章『仮面ライダー』騒乱記

●アマチュア無線をはじめる

 これもまた、用事があって石森プロに出かけたときのことだ。事務室にいたマネージャーが、突然、声をかけてきた。
「すがやクン、すがやクン。きみ、アマチュア無線の免許を持ってるとか言ってたよね?」
「はい、電話級の免許ですが……」(注=電話級は、もっとも初級の免許。現在の四級にあたる)
「実は石森のところにアマチュア無線の雑誌から、広告のイラストを描いてくれないかって依頼が来たんだけれど、忙しくて描いているヒマがないから断ろうと思っていたんだ。もし、すがやクンが描いてみる気があるなら、紹介してもいいんだけど……」
「わあ、ぜひ紹介してください」
 というわけで、すでに届いていた依頼書をまわしてもらい、この仕事を引き受けることになった。
 アマチュア無線雑誌というのはCQ出版社の「CQ Ham Radio」。アマチュア無線家(ハム)の間では「CQ誌」で通っている。
 この雑誌は、他のラジオ雑誌以上に広告のページが多く、とくに地方にある通信販売店の小さな広告がたくさん掲載されていた。石ノ森先生のピンチヒッターを頼まれたのは、もう少し大きな広告で、1/2ページくらいの大きさがあった(ような記憶がある)。
 天井から吊り下げるタイプの室内アンテナの広告で、ゴミに埋もれた無線オタクのような若者が、アマチュア無線をやっている絵を描いて提出したのだが、ハムの間では、ちょっと話題になったりしたらしい。その後、このイラストをQSLカード(ハム同士が交信したことを証明するため交換するカード)に使いたいという申し込みが来たりもした。
 それよりも嬉しかったのは、広告のイラストということで原稿料が高く、石森プロから振り込まれた額は、1点で五万円ほどになっていた。旺文社のマンガ一ページ分の原稿料の一〇倍だ。当時、借りていた6畳+2畳+キッチンのアパートが月に二万六〇〇〇円だったから、実に高額な原稿料だったことになる。
 この原稿料が振り込まれたとたん、脳裡にピカリとひらめいたことがあった。
「この原稿料で無線機を買おう!」
 ということだ。
 すぐに秋葉原に出かけたが、電気街に足を踏み入れるのは初めてのことで、右も左もわからない。なんとか看板を頼りにアマチュア無線のショップを訪ね、憧れだった無線機が置いてあるかどうか確認した。
 その無線機とはトリオ(現ケンウッド)の製品で、送信機がTX‐88A、受信機が9R‐59といった。三・五MHzから五〇Mhz(当時はヘルツといわずサイクルといった)までをカバーするオールバンドの送信機と受信機だ(受信機は五〇Mhzを受信するときは、コンバーターが必要だった)。
 ところが、ぼくが高校生の頃、名機として知られていたTX‐88AとQR‐59のセットは、すでに売られていなかった。
 店員に相談してみると、住まいを訪ねられ、アパート住まいだというと、ポータブル型のトランシーバーを勧められ、結局、その無線機を買うことにした。松下電器のRJX‐601という五〇MHz帯専用のトランシーバーで、乾電池を使えば肩にもかけて持ち歩くことができた。
ハムマンガ『いつか夜空で』トビラ。
 アマチュア無線をはじめる直前に描いたハムマンガ。題名は『いつか夜空』で。「中一時代」に掲載。ストーリーは、小学生のときに見たフランス映画『空と海の間に』の影響を受けている。
 すぐにアマチュア無線局の開局手続きもすませ、JI1MFTというコールサインが届いた。
 コールサインが届いた日の午後、ドキドキしながらトランシーバーのスイッチを入れ、メインチャンネルと呼ばれる周波数で「ハローCQ」の呼びかけを発すると、すぐに応答があった。
 すぐにサブチャンネルに移動し、自己紹介をする。こちらは杉並在住のマンガ家で、相手は、世田谷在住のイラストレーターだった。ペンネームは、たの・かえる。「夕刊フジ」や「週刊プレイボーイ」で不思議なタッチのイラストを描いていた。本名は、薄井雄二さんといった。
 これが縁で、薄井さんとの交流がはじまるのだが、やがてネット仲間ともなった薄井さんは、一九八八年に「小説現代新人賞」で小説家デビュー(ペンネームは薄井ゆうじ)。一九九四年には、『樹の上の草魚』で第一五回吉川英治文学新人賞受賞を受賞した。
 この年、ぼくも架空戦記小説で娯楽小説デビューを飾るのだが、初めてアマチュア無線で交信したときには、こんな成り行きになるなんて、予想もしていなかった。世の中、実に不思議なものである。

 ぼくはアマチュア無線をはじめたのがきっかけで、無線機関連のパーツや電子工作を楽しむために、ヒマさえあれば秋葉原に出かけるようになった。
 秋葉原の裏道やジャンク店をうろついているうちに、やがて、マイコンというものに遭遇し、日本初のマイコンショップ「Bit‐IN(ビットイン)」にも出入りするようになった。
 しかし、真空管世代のため、デジタルがまるで理解できなかった。テキサスインスツルメンツ(TI)の74シリーズというロジックICと発光ダイオードを買ってきて、論理回路を組んでみたりしながら、デジタル回路の勉強をしたが、理解したとはいえない状態だった。
 それでも時間ができると秋葉原に出かけては、「エレキット」というエレクトロニクス工作のキットを購入し、それを組み立てては楽しんでいた。
 神保町の小学館に打ち合わせに出かけるときは、たいてい秋葉原経由だった。そのため小学館を訪問するときは、手に電子パーツやマイコン雑誌が入った袋を下げていることが多かった。これが編集者の記憶に残っていて、「コロコロコミック」で〈テレビゲームマンガ〉の企画が出たとき、すぐに、すがやみつるの名前を思い出してもらうことができたのだ。世の中、何がきっかけになるかわかったものではない。
 でもやはり、ハムやエレクトロニクスにのめり込む最初のきっかけは、やはり、石ノ森章太郎先生のピンチヒッターでアマチュア無線雑誌の広告イラストを描いたことだったといえるだろう。
 その秋葉原も、いまは、大きく変わり、このブログの写真に出ている九十九電器も、昨日、民事再生法の適用を申請した……。

  つづく

  

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2008年10月26日

■『仮面ライダー青春譜』第70回

 第7章 『仮面ライダー』騒乱記

●初のオリジナルマンガ

「月刊少年チャンピオン」に『ベン・ハー』を描いた直後、仕事の打ち合わせがあって石森プロに出かけると、マネージャーが電話に向かって何やら大声で話していた。
 ぼくの姿を見たマネージャーは、隣の執筆室を指さした。細井ゆうじ、土山よしき、山田ゴロ、成井紀郎といったメンバーが、石森プロで仕事をするときに使っていた広い部屋だ。スチールデスクと椅子が一〇人分ほど並んでいる。「少年サンデー」連載の『人造人間キカイダー』も、毎週、ここで仕上げられていた。
 椅子に座ってマネージャーの電話が終わるのを待っていたが、電話は長引いていた。どうやら石ノ森先生が引き受けた読み切りの仕事が、スケジュールの関係で執筆できなくなり、そのことで編集者から苦情をいわれているらしい。事務室との間のドアが開けっ放しになっていたため、マネージャーの声は筒抜けだった。
「そんな、急にピンチヒッターといわれても……」
 マネージャーの声のトーンが変わった。石ノ森先生が描けないのなら、誰か代役を紹介しろと詰め寄られているらしい。開いたドアの向こうにいたマネージャーが、一瞬、ぼくの方に困った顔を向けた。
 ぼくは、ほとんど反射的に右手を挙げた。ピンチヒッターに名乗りを挙げたつもりだったのだ。
「ここにひとり、活きのいいのがいるんだけど、会ってみます……?」
 ぼくの意図を察したマネージャーも、やはり反射的にぼくを売り込んでくれた。阿吽{あうん}の呼吸とは、こういうことをいうのだろう。しかも、次の展開が早かった。
「じゃ、すがやクン。編集者が待っているから、ちょっと会ってきてよ」
 マネージャーが、受話器を置くなり、こういった。なんと石森プロにねじ込むつもりでいた編集者は、目と鼻の先にある喫茶店まで来て、そこから電話をかけていたのだ。携帯電話のない時代だったので、外出先から電話をかけるには、街頭の公衆電話を使ったり、喫茶店に入ってピンク電話を使うのが当たり前だった。
 そんな急な話とは思わなかったので、手元には見本の作品もない。しかたがないので手ぶらで喫茶店に出かけると、「中一時代」(旺文社)の大柄で太った編集者が、憮然とした顔で待っていた。
「で、どんなのを描きたいの?」
 名刺を交換したぼくに、編集者が質問した。海のものとも山のものともつかぬ新人が相手では、不安だったのだろう。
『オレはタカの子』トビラ。
『オレはタカの子』トビラ。
 ぼくは、ストックしてあったストーリーの中から「中一時代」に向いたものをと考え、『オレはタカの子』という短編の構想を話すことにした。石森プロの仕事に入る前、ほとんど失業者状態だったときに、あれこれ考え溜め込んであったストーリーの一本だ。
 部下を事故で死なせことが原因で高所恐怖症になり、酒におぼれて仕事ができなくなった鳶職人と、その息子の物語である。鳶職人をしている腹違いの兄のところでアルバイトをしたこともあり、この危険な職業についても多少の知識があった。
「高所恐怖症の鳶職人ってのがいいね」
 編集者は、その場でストーリーにOKを出してくれたが、締切までは一週間もしかない。しかも初めての完全オリジナル作品である。ぼくは、その日のうちに東海道新幹線に飛び乗って郷里にもどると、兄の家に行き、鳶職人として仕事をしてきた現場の写真を借りてきた。
 急いで東京にもどると、借りてきた写真を見ながらネームに取りかかり、翌日には「中一時代」の編集者に見せることができた。ノートにストーリーの断片は書きつらねてあったが、細かいエピソードまで、すべて頭の中にできあがっていた。三二ページのネームが一晩でできたのも、そのせいだ。
 ネームは、とくに直されることもなく、応援のアシスタントとともに、すぐに作画に取りかかった。
 原稿は四日ほどで完成した。そのことを編集者に電話で伝えると、
「今日、おたくのすぐ近くに住んでいる作家さんのところに、バイク便が原稿を取りにいくことになっているんで、そこにマンガの原稿を預けてくれないかなあ。電話しとくから」
 とのこと。作家の名前と住所を教えられてビックリ。石津嵐という名前に覚えがあったからだ。
 石津嵐という名前は、『鉄腕アトム』のアニメで見覚えがあった。そして、中学生のとき、製紙工場に忍び込んで頂いてきた「鉄腕アトムクラブ」という虫プロ発行の『鉄腕アトム』ファンクラブ向けの雑誌にも、この名前が出ていたのを覚えていた。
 住所を頼りに石津家を探しにいくと、なんと三軒ほど先の向い側にあった家がそうだった。
 玄関から声をかけると、「おう、入れ」という野太い声が聞こえてきた。
 玄関のガラス戸を開き、自己紹介と用件を伝えると、
「ああ、聞いとる、聞いとる。原稿は、そこに置いていきなさい」
 と、下駄箱の上を指さした。そこには別の封筒もあった。石津さんが書いた原稿らしい。
 これが縁で石津さん一家とは、子どもたちまで含めての交際がはじまり、ついには親戚のようなつきあいになるのだから、世の中は不思議なものである。
「中一時代」の増刊号用に描いた『おれはタカの子』という読み切りは、原稿を読んだ編集長が、たいそう気に入ってくれ、なんと本誌での三回連載を発注してくれたのだ。
 こうしてぼくは、「中一時代」に『ハチん子ジプシー』という北海道の牧場を舞台にした養蜂家の一家の物語を連載することになった。このマンガも、いつか描きたいと思って温めていたものだ。
 ベースになったのは、小学生のときに観た赤木圭一郎主演の『幌馬車は行く』という日活アクション映画と、<『星の牧場』(庄野英二)という児童文学だった。どちらも花を追ってジプシーのように旅をする養蜂家の世界が舞台になっていた。
「中一時代」では、その後も隔月くらいのペースで読み切りマンガを描き(なかには『ジャッカルの日』という映画のコミカライズもあった)、ミステリークイズマンガや少女マンガまで連載したことがある。
「中一時代」の仕事は、実にありがたい仕事でもあった。ほかの仕事に比べ、原稿料が二倍以上と高額だったからだ。「中一時代」の仕事が入ったおかげで、ぼくの暮らしは、だいぶ楽になった。

  つづく


  

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2008年10月24日

■『仮面ライダー青春譜』第69回

 第7章 『仮面ライダー』騒乱記

●オイルショックで消えた週刊誌連載

『仮面ライダー』をはじめとする石森プロの仕事に追われる毎日がつづいていた1973年の春、突然、予想もしなかった人から電話がかかってきた。
 電話の主は、「冒険王」に『新・仮面ライダー』の連載一回目を描いた直後、「すがやを『仮面ライダー』からおろせ」と石ノ森先生のところに怒鳴り込んできた秋田書店の壁村耐三氏である。壁村氏は、あの〈事件〉の直後に「冒険王」から「週刊少年チャンピオン」の編集長に異動し、同時に「月刊少年チャンピオン」の編集長も兼任中だった。
 その壁村編集長からの電話は、「『月刊少年チャンピオン』でマンガを描いてみないか?」というものだった。
 もちろんビックリ仰天である。
「本当に、ぼくでいいんですか……?」
 おそるおそる訊き返した。一年前、あれだけの剣幕で「すがやをおろせ!」と言われたのだ。京王プラザホテルのロビーでの様子は、いまだにしっかりと脳裡に焼きついていた。
「『仮面ライダー』もずっと見ていて、うまくなったのを確認したから依頼してるんじゃないか」
 壁村編集長が苦笑しながら発注してくれたのは、劇場映画のマンガ化――いまでいうコミカライズの仕事だった。
『ベン・ハー』マンガ版。クリックで拡大。 最初に手がけたのは、チャールトン・ヘストン主演の『ベン・ハー』である。4時間ほどもある大長編映画を45ページほどにまとめる仕事だった。
『ベン・ハー』のマンガ化にあたっては原作の小説も読んだが、この作品の原題は『イエス・キリストの物語』。映画でも最後にキリストの処刑シーンが出てきたが、児童マンガを描いてきた経験から、宗教的なシーンを入れるのに抵抗を感じ、その直前でマンガを終えることにした。
 そのネームを壁村編集長に見せると、「映画と同じ最後にしなくちゃダメだよ。そういう映画なんだから」とのことでボツ。ラストの数ページを調整して、最後に処刑シーンを入れることになった。
 一生懸命になって描いたのは確かだが、意識が先走りしたのか、どうもギクシャクした感じに仕上がっていた。
『最後の猿の惑星』マンガ版。クリックで拡大。 そんなこともあって「月刊少年チャンピオン」の仕事は一回こっきりで終わるんじゃないかと思っていたら、そんなことはなく、さらに『最後の猿の惑星』、レース映画の『ラスト・アメリカン・ヒーロー』、予告では田辺節夫氏の名前になっていた『ダーティハリー2』、ジョン・ウェイン主演の『マックQ』といった映画のコミカライズを描きつづけることになった。

 その後、一九七三年の終わりになって、「週刊少年チャンピオン」の新人に割り当てられた枠で、十回連載をやらせてもらえることになった。東京の下町を舞台にした原作つきのマンガで、担当編集者と一緒に都電荒川線に乗って舞台となる地域に出かけ、背景に必要な写真撮影もすませたとき、中東で起きた戦争をきっかけに、突如、世界を襲ったのがオイルショックだった。
 石油が値上がりし、ガソリンも高騰して、ガソリンスタンドは休日が休みになった。値段が上がったのは石油やガソリンだけではない。石鹸もトイレットペーパーも値段が急騰し、ついにはスーパーや商店の店頭から商品が消えた。エアコンの使用を控えようということで、翌年の夏には〈省エネルック〉というおかしなファッションまで飛び出した。
 マンガ雑誌に使われる再生紙の値段も急上昇し、定価を維持するために総ページ数が減らされた。「少年チャンピオン」でも、一折り(三二ページ)のページ減が決定した。それは、ぼくが連載の準備をしていた新人枠のページだった。
 こうして、すがやみつるは、週刊少年誌に連載するチャンスを逃したのだが、それがいいことだったのか、悪いことだったのか……。これが「テレビマガジン」や学年誌、「コロコロコミック」といった児童マンガに注力するきっかけにもなったのだから、とりあえずは〈よし〉ということにしておこう。

  つづく


  

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2008年10月18日

■『仮面ライダー青春譜』第68回

 第7章『仮面ライダー』騒乱記

●編集者の経験を活かす

 石森プロの仕事が増え、臨時のアシスタントを頼む機会も増えたことから、少し広いアパートに引っ越すことにした。最寄り駅は、同じ地下鉄丸の内線の東高円寺。青梅街道沿いの駅を挟んで反対側になる。
 これまでの部屋は、六畳一間に小さな台所がつき、トイレは共同だった。新しいアパートは、六畳と三畳が一部屋ずつに三畳ほどのキッチンがつき、トイレも室内にあった。四畳半一間のアパートからスタートしたことを考えると、大した出世である。
 さらに、もう一部屋、四畳半の部屋を近所に借り、郷里から呼んだ母の住まいにした。仕事が忙しくなったのはよかったが、一日二食が店屋もの、残り一食がインスタントラーメンか発売になったばかりのカップヌードル――という生活をつづけていたら、栄養失調のような症状が出て、見るに見かねた母がメシスタントとして上京してくることになったものだ。母の引っ越し費用には、ジョージ秋山氏からいただき、母に送ってあったアシスタント代を使わせていただいた。
 石ノ森章太郎先生のアシスタントを退職した津原義明、「墨汁三滴」の後輩になる、ほしの竜一といった面々が手伝ってくれたのだが、母の食事が好評で、みんな喜んで仕事を来てくれた。それもそのはずで、母は割烹旅館で板前をしていたプロの調理師だったのだ。
 若いアシスタントたちにとっては、「こんな料理、生まれてはじめて食べた」というような豪勢な料理も多かった。そのせいか、仕事に来るときには頬がこけていたのに、一週間ほど泊まり込みで仕事をしているうちに、二重顎になるアシスタントもいたほどだ。
 食事が豪勢だということが有名になっていたおかげで、アシスタントの確保には困らずにすんだが、問題は、その食費だった。原稿料が安かったため、食費とアシスタント代、アパートの家賃などを払うと、手元には、ほとんどお金が残らない状態だった。
 アシスタントの給料を払ったら銀行の残高がなくなってしまい、取材に使うからといってイトコから借りた一眼レフカメラを質入れしたこともある。母が持っていたダイヤの指輪も、何度も質屋に出入りしたものだ。
 月産三〇〇ページを超える仕事をこなしていたのに、いわゆる〈連載貧乏〉という状態におちいってしまったのだ。
 それでも仕事を減らそうとは思わなかった。この段階では、石森プロの仕事が大半で、〈お金をいただきながら練習させていただいている〉という意識を持っていたからだ。
 連載マンガの仕事だけでは生活が厳しいので、雑誌のマンガ以外の仕事もやることにした。デパートの屋上で開催される『ウルトラマン・ショー』の新聞チラシのイラストやベビーダンスにつけるワンポイント・イラスト。少しあとになるが、アニメ『アルプスの少女ハイジ』の音楽カセットテープのパッケージイラストも描いたことがある。
 雑誌では、編集プロ勤務時代の経験を活かして、雑誌のクイズやバラエティのページを丸ごと請け負う仕事である。アイデアから誌面構成、作画、そして文字指定などの入稿作業までを、すべてひとりでやってしまうのだ。このような仕事には、通常、アイデアマンか構成作家にマンガ家、編集者が参加したが、これをひとりでまかなってしまうため、編集部にとっては便利な存在になった。しかもギャラも割り増しになるため、とても助かった。
 石森プロの紹介で絵本の仕事をしたときも、やはりアイデアから入稿までをセットで請け負った。幼児向けの絵描き歌の絵本では、絵描き歌の歌詞から画面構成、作画、そしてネームや色指定までをひとりでやってしまうのだ。こちらもマンガの原稿料以外に、構成料や編集料が上乗せされたため、とても助かったものだ。
 編集をしていた経験が、レギュラーの仕事に役立ったこともある。『仮面ライダー』を連載していた「冒険王」を発行する秋田書店では、この頃、労働組合ができ、社員が待遇改善を求めてストライキをすることがあった。
 ストライキ中の秋田書店のビルには、窓やドアにベタベタとポスターが貼られていたが、そのなかに吾妻ひでおさんの絵が使われていたこともある。おそらく担当編集者に頼まれていた描いたものにちがいない。過激な言葉が並ぶポスターの中で、吾妻さんのイラスト付きのポスターは、ちょっと脱力気味に浮いていたものだ。
 ストライキになると非組合員の編集長が一人で雑誌を作らなければいけなくなる。壁村さんの後任になった編集長は、以前、隔週だった時代の「少年チャンピオン」で編集長をしていた成田清美さんだった。
 その頃、鈴木プロにいたぼくは、「少年チャンピオン」の柱の原稿を書いたり、企画ページの仕事で、何度も秋田書店に通っていた。まだ水道橋に社屋があった頃のことだ。秋田書店がストライキになったとき、東高円寺の喫茶店まで『仮面ライダー』の原稿を取りに来てくれた成田さんは、ぼくが編集者をしていたことを覚えていた。
「ひとりで全作品を入稿していて、今日も完徹状態で、頭が働く状態じゃないんだ。悪いんだけど、トビラのあおり文句と最終ページの引きの文句を作ってくれない?」
 いつもスーツ姿でビシッと決めている成田さんが、この日は、ノーネクタイのワイシャツ姿で、無精髭を伸ばしたままだった。頬もゲッソリとこけて、いかにも疲労困憊という様子だった。
「わかりました」
 ぼくが差し出された原稿用紙に、トビラにつけるアオリの文句と最終ページにつける引きの文句を書き、ついでに写植の級数指定をしている間、成田さんは昏倒するように、祖ファンにもたれて眠っていた。
 アオリとは、マンガの扉に入る「忍びよるショッカーの影。ライダーにしかけられる罠!」といったキャッチコピーのこと。「引き」とは、マンガの最後のページの欄外に入る「ライダーの活躍で地球の危機は去った。しかし、死神博士は、さらに強力な怪人を呼び寄せた。負けるなライダー、地球を守れ!」といったコピーのことである。
 ストライキで会社がロックアウトされると、非組合員の編集長の依頼で、自分で描いたマンガのネームを自分でとることもあった。
 トレペに吹き出しの形を写し、セリフを書き写してから、書体と級数の指定をする。
 担当編集者は、ぼくがネームをとったトレペを写植屋さんに渡すだけでいい。こんな便利なマンガ家は、ほかにはいなかったことだろう。
「テレビマガジン」に連載していた『仮面ライダーV3』の原稿が遅れに遅れて完成が深夜になったとき、原稿を抱えてタクシーで講談社の編集部まで出向き、自分で入稿作業をしたこともある。新人だった担当編集者にカラーの入稿経験がなく、朝になって出社してくる別の編集者に入稿してもらうまで、帰宅できないと話していたからだ。
『こんにちはマイコン』2色ページ元原稿。
『こんにちはマイコン』2色指定。
『こんにちはマイコン』2色ページ。
 カラー指定の例。作例は『こんにちはマイコン』の2色ページ。上から原画、色指定をした状態(実際にはトレペの上から指定)、印刷されたページ。画像をクリックすると拡大表示されます。
 音羽の講談社にタクシーで駆けつけたぼくは、「テレビマガジン」の編集部で自分の原稿に2枚ずつトレペをかけた。1枚にはネームを書き写して級数指定をすると、大山スタジオという写植屋さん宛ての箱に入れる。もう1枚にはタイトル文字や書き文字の色指定、V3のヘルメットの色を明るくするといったレタッチの指定をし、共同印刷宛ての箱に原稿をともに入れる。鈴木プロにいた頃、「少年マガジン」や「ぼくらマガジン」の編集部に詰めて、あれこれ入稿作業をしていた経験があるので、このあたりは、昔とった何とやらである。
 編集の経験があったおかげで、カラー原稿の書き文字も、最初は絵の具で色を塗っていたが、すぐに色は塗らずにトレペで色指定するようになった。色を塗ったところで編集者に「濁りトル」だの「キアカ調に」などと指定され、色をクリアにされることが多いので、それなら最初から指定ですませた方が手っ取り早い――というわけである。「キアカベタ」「キ100%、アイ30%」といった色指定は、編集プロの仕事で慣れっこになっていた。
 こうしてアルバイトやら仕事の合理化やらで、なんとか食いつないでいた頃、突然、っ予想もしなかった人から電話がかかってきた。電話の主は、「冒険王」連載の『新・仮面ライダー』1回目で、ぼくをクビにしようとした、あの壁村編集長だった……。

  つづく


  

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2008年10月13日

■『仮面ライダー青春譜』第67回

 第7章 『仮面ライダー』騒乱記

『人造人間キカイダー』描き直しの危機!

 少しだけ時間をもどす。
 一九七二年の夏、石ノ森章太郎先生の監修がなくなる直前、また新しい石森プロ作品がテレビでスタートすることになった。
 タイトルは『人造人間キカイダー』。土曜日の午後八時、ドリフターズのお化け番組『8時ダヨ! 全員集合』(TBS)の裏番組としてNET(現テレビ朝日)でスタートしたロボット特撮作品だ。
 番組の放映にさきがけて「少年サンデー」でマンガの連載がスタートした。石ノ森先生が下書きまでを担当し、土山よしき、細井ゆうじ、山田ゴロがペン入れから仕上げまでを分担する分業方式での連載である。そのほかに小学館の学年誌にも『キカイダー』のマンガが連載されることになり、ぼくは「小学一年生」の連載を担当することになった。
 予告の段階では、『ゼロダイバー』というタイトルだったが、連載開始時には『人造人間キカイダー』になっていた。
「キカイダー?」
 最初、この題名を聞いたときは、みんなで笑い転げたが、おかしなもので慣れてしまうと、少しも違和感はない。おそらく『ゼロダイバー』のままだったら、幼児にはアピールしなかったことだろう。『キカイダー』で味を占めた石森プロでは、その後、『イナズマン』『ロボコン』『ゴレンジャー』と、わかりやすいダジャレ路線をつづけることになる。
 ぼくが担当した「小学一年生」の『キカイダー』は、1回目が2色のオフセットで8ページ。トビラで1ページを使っているため、本文は7ページしかないのだが、それでもクライマックスでキカイダーが敵のロボット〈サイキング〉をやっつけるシーンでは、見開きの大ゴマを使うハデハデ路線をとった。
「テレビマガジン」の『仮面ライダー』で低学年向けのシンプルなストーリーづくりに慣れていたせいか、石ノ森先生の監修もゆるやかで、わりと簡単にOKをもらうことができた。
 西武池袋線・桜台駅ちかくの喫茶店ラタンで先生に原稿を見てもらい、OKをいただくと、原稿を持って池袋に向かった。駅前の〈耕路〉という喫茶店で、「小学一年生」の担当編集者に原稿を渡すことになっていたからだ。
 原稿を描くのは慣れてきていても、完成の日ともなれば、徹夜になるのは当たり前だった。このときも、36時間くらい起きたまま原稿を描いていたはずだ。もちろん、うっかりすると睡魔に襲われる。そのため西武池袋線の電車では、座席に座らず、立ったまま池袋に向かった記憶がある。
 とにかく原稿を渡せば寝ることができる。さっさと渡して、さっさとアパートに帰ろう。
 そんなことを考えながら喫茶店に到着すると、「小学一年生」の新人編集者Tさんが、テーブル席で待っていた。Tさんとは、このときが初対面だった。
 挨拶もそこそこに原稿の入った封筒を渡すと、Tさんは封筒から原稿を取り出した。
 石ノ森先生がOKを出していた原稿なので、そのまま受け取ってもらえると思っていたら、そうではなかったのだ。
 Tさんは、なめるように原稿を読んでいたのだが、そのうちに「うーん……」と唸り声を出しはじめた。
 見ているのは見開きで描かれたクライマックスのアクションシーンだ。
「うちは学習雑誌なんだよね……」
 Tさんがボソリと言った。「こんなに派手だとまずいんだよね……」
「そうなんですか……」
 ぼくは、派手に派手に……と意識して描き、その点を石ノ森先生にも誉めてもらったばかりだったのだ。
「いくら敵のロボットだからといって、こんなに派手に壊れるのは、教育上、ちょっと問題があるなあ……」
 そんな制約があることは、まったく聞いていなかった。もしアクションシーンに問題があるのなら、こんな娯楽作品を連載する方が間違っているのだ――なんてことも考えたが、もちろん口に出せるわけがない。
「とりあえず原稿を編集部に持ち帰って上司と相談してみます。たぶん描き直しになると思いますから、連絡が取れるようにしておいてください」
 Tさんは、そういって小学館にもどっていった。
 ぼくは池袋から山手線で新宿に出て、ここから地下鉄丸の内線で東高円寺のアパートに帰ることにした。やっと寝られると思ったのに、描き直しの電話がかかってくるかもしれないのだ。ガックリしながら部屋にたどりつくと、すぐに電話のベルが鳴った。電話機はダイヤル式の黒電話である。
 電話の相手は「小学一年生」のデスクをしていたCさんだった。つまりTさんの上司である。Tさんは単刀直入に言った。
「原稿を拝見しました。迫力があって、たいへんけっこうです。うちは、こういうマンガを求めていたんです。これからも、この調子で動きのあるマンガを描いてください。では、お疲れでしょうから、ゆっくりおやすみください」
 Tさんは一方的に話すと、すぐに電話を切った。
 こちらは描き直しを覚悟していたので、拍子抜けした気分になったが、とにかく寝られるのがありがたかった。
 ぼく自身は、デッサン力がないのも自覚していたので、派手なアクションシーンを描くのが苦手だった。石ノ森先生の監修があるときは、先生が構図の手直しをしてくれたので、なんとか格好がついていたが、この直後、先生の監修がおしまいになった。アクションシーンの構図やアイデアも、自分で工夫しなければならなくなったのだ。
アメコミ写真
 1972年から73年頃にかけて買ったアメコミの数々。『仮面ライダー』や『キカイダー』の構図や色づかいの参考にした。
 そんなとき、小学館へ打ち合わせに出かけたついでに立ち寄った神保町の古書店で、絶好の参考資料に遭遇することになる。それはブックブラザーという洋書の古書を扱う店で売られていたアメコミの数々だった。
『スーパーマン』や『スパイダーマン』。『キャプテン・アメリカ』に『シルバーサーファー』に……といったアメコミの古書を購入し、『仮面ライダー』や『キカイダー』のアクションシーンの参考にしはじめたのだ。
 本当は、そっくりに真似たかったのだが、画力の不足によって、似せようと思っても似せることができなかった。それでも「テレビマガジン」連載の『仮面ライダーV3』あたりでは、原色の色づかいがアメコミ風になっていた。
 アメコミに興味を持つ人が少なかったのか、ブックブラザーには、いつも中古のアメコミが山積みになっていて、1冊30円から50円くらいで買うことができた。
 あの頃に購入したアメコミをいまも持っていたら、相当なお宝になっていたらしい。うーん……惜しかったかなあ……。

  つづく


  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 16:59 Comments(5)TrackBack(0)