2009年02月26日
読書:安倍夜郎『深夜食堂』(1~3)
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昨日(2月25日)の読売新聞夕刊に、この作品が大きく紹介されていました。短編集なんですが、ホントに「いい味」出してます。先日、単行本をまとめ買いして、一気読みしてしまいました。ショートテレビドラマにもなりそう。
この作者の作品は、デビュー作の『山本耳かき店』でぶっ飛んで、発売直後の2004年3月26日に、ブログでこんなことを書いたことがあります。
いま発売中の「ビッグコミックオリジナル」に、小学館新人コミック大賞の受賞作『山本耳かき店』が載っている。書店でパラパラと立ち読みするつもりだったが、あまりにも面白そうなので、つい購入。「ガロ」に載っていてもおかしくない題材(ヰタセクスアリスもの)であり、絵であるのだが、構成も秀逸で、一気に読んでしまう。
そういえばわたくしめも耳かきが好きで……というよりも仕事でイラツイてくると耳かきをするクセがあったのだが、つい度が過ぎて耳の中を傷つけてしまい、炎症に悩まされたこともあった。それで最近は、竹の耳かきはヤメて綿棒にしているのだが、でも、竹の専用耳かきでコリコリと耳垢を掻き出すほうが、やっぱり気持ちがいいなあ……。
このとき、恥ずかしくてブログには書きませんでしたが、「これは傑作だ!」と思い込み、この作品が掲載された「ビッグコミック・オリジナル」を5冊も買い込んで、飲み屋で配って歩いたのでありました。はっきり言って、これは官能マンガです。それも上質の。女性の裸がいっぱい出てくるアダルトコミックより、ずっとずっとエロティックです。
この作品、その後、1回だけ続編が掲載されましたが、風のウワサでは続編もあるらしい。同じ名前の耳かき店ができたせいかどうかは知りませんが、ぜひとも『山本耳かき店』も単行本にしてほしいものです。
この作者の作品は、デビュー作の『山本耳かき店』でぶっ飛んで、発売直後の2004年3月26日に、ブログでこんなことを書いたことがあります。
いま発売中の「ビッグコミックオリジナル」に、小学館新人コミック大賞の受賞作『山本耳かき店』が載っている。書店でパラパラと立ち読みするつもりだったが、あまりにも面白そうなので、つい購入。「ガロ」に載っていてもおかしくない題材(ヰタセクスアリスもの)であり、絵であるのだが、構成も秀逸で、一気に読んでしまう。
そういえばわたくしめも耳かきが好きで……というよりも仕事でイラツイてくると耳かきをするクセがあったのだが、つい度が過ぎて耳の中を傷つけてしまい、炎症に悩まされたこともあった。それで最近は、竹の耳かきはヤメて綿棒にしているのだが、でも、竹の専用耳かきでコリコリと耳垢を掻き出すほうが、やっぱり気持ちがいいなあ……。
このとき、恥ずかしくてブログには書きませんでしたが、「これは傑作だ!」と思い込み、この作品が掲載された「ビッグコミック・オリジナル」を5冊も買い込んで、飲み屋で配って歩いたのでありました。はっきり言って、これは官能マンガです。それも上質の。女性の裸がいっぱい出てくるアダルトコミックより、ずっとずっとエロティックです。
この作品、その後、1回だけ続編が掲載されましたが、風のウワサでは続編もあるらしい。同じ名前の耳かき店ができたせいかどうかは知りませんが、ぜひとも『山本耳かき店』も単行本にしてほしいものです。
2009年02月26日
最近読んだマンガ関連本
『劇画漂流 上巻』(辰巳ヨシヒロ/青林工藝舎/2008年11月刊/1,680円)........劇画家・辰巳ヨシヒロ氏の自伝劇画です。辰巳氏の作品は、中学生から高校生の頃、貸本屋で何作か借りて読みましたが、当時は絵柄が泥臭い感じがして、あまり好みではありませんでした。でも、この作品は、絵が昔よりも洗練されていて、とても読みやすかった。
『劇画漂流 下巻』(辰巳ヨシヒロ/青林工藝舎/2008年11月刊/1,680円)........内容は、太平洋戦争の終戦直後から1960年頃までの「劇画」の歴史と状況が、劇画の名づけ親でもある当事者によって内部から語られたもの。こんな作品が、もっと多くあってもいいように思う。
『バクマン。 1 (1) (ジャンプコミックス)』(大場つぐみ・原作/小畑健・マンガ/集英社/2009年1月刊/420円)........絵が緻密で線が細すぎて、新書判のコミックスでは読むのがツライ。老眼のせいもあるけれど、それだけだろうか? 人物が背景の中に溶け込んでしまっていて、すごく読みづらい。マンガは、いろんな意味で「疲れないメディア」だったはずなんだけどなあ……。
『ビッグコミック創刊物語―ナマズの意地』(滝田誠一郎/プレジデント社/2008年11月刊/1,600円)........「ビッグコミック」創刊編集長の小西湧之助さんを主軸に、小学館のマンガ&サブカル雑誌の歴史を綴ったノンフィクション。小西さんといえば石ノ森章太郎先生の盟友のような方で、パーティーや石ノ森邸での新年会で何度もお会いしてはいるのだが、おそらく、当時ペエペエだったこちらのことは憶えていらっしゃらないように思う。その右腕ともいえるのが『ゴルゴ13』のモデルとも『編集王』のモデルとも言われ、本書にもたびたび登場する田中一喜さんだが、田中さんには、部署違いなのに小学館漫画賞受賞を知らせる電話をいただいたり、パソコン購入の相談に乗ったりと、あれこれ行き来がありました。いまは家庭菜園づくりを楽しんでいるそうですが、なんだかもったいない気もします。「最近の若い編集者は、会議ばかりしやがってさ。会議から生まれてくるマンガなんて平均点を取っても、化けるマンガにゃならねえのにな。これ! と思ったら、とにかく雑誌に載っけてみりゃいいんだよ。マンガってのは博奕なんだから」
田中さんのこんな言葉が記憶に残っています。
2009年02月22日
すがやみつるのネットライフ第10回
すがやみつるのネットライフ(第10回)
■第1章 こんにちはパソコン通信(1985)
●憧れのオンラインジャーナリスト、憧れのタンディ100
マイコンがパソコンになり、ワープロや表計算といった実用ソフトが利用できるようになると、誰もが夢見たのが、どこにでも持ち運べる携帯パソコンだった。
アラン・ケイ博士が提唱した携帯コンピューターに関する「ダイナブック」構想も知られてはいたが、1980年代初頭の段階で考えられていた携帯パソコンは、「飛行機の座席の下に納められるパソコン」だった。こんなものが携帯パソコンの定義になるのは、飛行機や自動車での移動を前提としたアメリカならではの発想だろう。
誰もが夢見た携帯パソコン――その夢を最初にかなえたのはアダム・オズボーンという男だった。彼が販売したのは自分の名前をつけた「オズボーンI」という。5インチのCRTモニターを持ち、前蓋を開くと、その裏がキーボードになっていた。大きさは小型テレビほど。重さは10キログラム強もあった。表計算ソフトの「ビジカルク」が最初から内蔵されていた。「買ってきてスイッチを入れれば、すぐに使えるパソコン」でもあったのだ(当時のパソコンの大半は、ソフトを自作する必要があった)。
1984年に発売されたモニター一体型の初代マッキントッシュ(Mac)でさえも、携帯用のショルダーバッグが、オプションとして発売されていた。身体の大きいアメリカ人には、Macでさえも携帯パソコンのうちだった。
しかし、本格的に屋外でも使えるパソコンとなれば、乾電池、あるいは充電可能なニカド電池などで動く必要がある。大きさ、重さも小脇に抱えて歩ける程度のものでなければならないだろう。そんな小型パソコンとして最初に登場したのは日本においてだった。1982年に発売されたエプソンの「HC-20」というA4サイズの携帯パソコンである。
ただし、このHC-20は、フルキーボードを持ってはいるものの、液晶ディスプレイは20字×4行のみ。そのかわりに、プログラムを記録させるためのマイクロカセットと、スーパーのレシートみたいな小さなプリンターが内蔵されていた。
しかし、この携帯パソコンは、在庫管理などを目的に作られたもので、オンラインジャーナリストの道具とはなり得なかった。
新聞社、通信社の記者たちが飛びついた携帯パソコンは、誰がなんといっても1983年に発売されたTandy TRS-80 Model 100(通称 Tandy 100/タンディ100)であろう。大きさはA4サイズ。厚手の単行本ほどの厚みはあるが、重量は1・7キログラムにとどまっていた。フルキーボードと40字×10行の液晶ディスプレイを持ち、単3乾電池4本で動くため、屋外での利用にも便利だった。
また、表計算の「マルチプラン」、通信ソフト、簡易ワープロ、電話帳、BASICなどのソフトが最初からROMで搭載されていた。BASICを知らなくても、表計算やワープロが使える便利なパソコンだったのだ。
さらに特筆すべきは、300bpsながらもモデムを内蔵していたことである。このおかげで新聞社、通信社の記者が、ワープロソフトで書いた文章を、電話回線経由で自社のホストコンピューターに送り込むことが可能になったのだ。
このタンディ100は、アスキー創業者の西和彦氏がマイクロソフトの副社長を兼務していた時代に設計を担当し、京セラがOEMで製造を担当したものだ。1983年に発売になるや、この年だけで売り上げは6万台を突破。通算で600万台以上が売れたそうで、これは現在でも単機種での発売台数の記録になっているという。
1984年、ロサンゼルス・オリンピックが開催されたとき、日本の新聞に、「スタンドの記者席で、原稿用紙に鉛筆で記事を書いているのは日本の新聞記者くらいのもの。他の国の記者たちは、ほとんどが小型の電動タイプライターを使っている」という内容の記事が載ったことがある。
陸上競技場の記者席がテレビに映ったとき、デスクの上に並んでいる「電動タイプライター」に注目したら、それはすべてタンディ100だった。日本の新聞記者がタイプライターだと思ったのは、実は小型のパソコンで、記者席から本社のホストコンピューターに電話回線で記事を送り込んでいたのである。この頃、日本の新聞社では、まだFAXが文明の利器だった。日本の新聞社が「ワープロ入稿」と呼ばれるモデムを使った送稿を行なうようになるのは、1980年代後半になってからである。
コンピュサーブ・オートレーシング・フォーラムのスタッフたちが、サーキットで使っていたのも、やはり、このタンディ100だった。「元祖モバイルPC」という称号があるのなら、やはりタンディ100に贈られるべきだろう。そして「元祖モバイラー」あるいは「元祖ロードウォリアー」と呼ばれるべき人たちは、最初にタンディ100を使った新聞社、通信社の記者、あるいはコンピュサーブ・オートレーシング・フォーラムのスタッフのような人たちになるはずだ。
ぼくもタンディ100とオンラインジャーナリストの存在を知り、ぜひともタンディ100を買ってオンラインジャーナリストを気取りたいと思ったが、残念なことに日本では販売されていなかった。
そのかわりに日本では、タンディ100の兄弟、あるいは従兄弟ともいえる携帯パソコンが発売されていた。NECのPC-8201である。これはタンディ100と同じく京セラのOEM製品で、タンディ100からモデムと表計算ソフトのマルチプランを取り除き、かわりに半角カタカナのフォントを搭載したものだった。エプソンのHC-20と同じように、在庫管理などでの使用を考慮されたのか、バーコード・リーダーの接続端子までついていた。
1985年頃までの日本では、パソコンもごく限られた人たちが使うだけで、日本語ワープロも、まだ「高値の花」だった。とくに究極の文科系人間の多い新聞記者には、タンディ100のような「ジャーナル・マシン」としての機能は、無用の長物と判断されていたのだろう。
つづく
■第1章 こんにちはパソコン通信(1985)
●憧れのオンラインジャーナリスト、憧れのタンディ100
マイコンがパソコンになり、ワープロや表計算といった実用ソフトが利用できるようになると、誰もが夢見たのが、どこにでも持ち運べる携帯パソコンだった。
アラン・ケイ博士が提唱した携帯コンピューターに関する「ダイナブック」構想も知られてはいたが、1980年代初頭の段階で考えられていた携帯パソコンは、「飛行機の座席の下に納められるパソコン」だった。こんなものが携帯パソコンの定義になるのは、飛行機や自動車での移動を前提としたアメリカならではの発想だろう。
誰もが夢見た携帯パソコン――その夢を最初にかなえたのはアダム・オズボーンという男だった。彼が販売したのは自分の名前をつけた「オズボーンI」という。5インチのCRTモニターを持ち、前蓋を開くと、その裏がキーボードになっていた。大きさは小型テレビほど。重さは10キログラム強もあった。表計算ソフトの「ビジカルク」が最初から内蔵されていた。「買ってきてスイッチを入れれば、すぐに使えるパソコン」でもあったのだ(当時のパソコンの大半は、ソフトを自作する必要があった)。
1984年に発売されたモニター一体型の初代マッキントッシュ(Mac)でさえも、携帯用のショルダーバッグが、オプションとして発売されていた。身体の大きいアメリカ人には、Macでさえも携帯パソコンのうちだった。
しかし、本格的に屋外でも使えるパソコンとなれば、乾電池、あるいは充電可能なニカド電池などで動く必要がある。大きさ、重さも小脇に抱えて歩ける程度のものでなければならないだろう。そんな小型パソコンとして最初に登場したのは日本においてだった。1982年に発売されたエプソンの「HC-20」というA4サイズの携帯パソコンである。
ただし、このHC-20は、フルキーボードを持ってはいるものの、液晶ディスプレイは20字×4行のみ。そのかわりに、プログラムを記録させるためのマイクロカセットと、スーパーのレシートみたいな小さなプリンターが内蔵されていた。
しかし、この携帯パソコンは、在庫管理などを目的に作られたもので、オンラインジャーナリストの道具とはなり得なかった。
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| タンディ200(左)とタンディ100(右)。タンディ100はF1カメラマンの間瀬明氏に頂いたもの。間瀬氏には別に保存してあるタンディ200も頂いた。手前は専用のカプラー。 |
また、表計算の「マルチプラン」、通信ソフト、簡易ワープロ、電話帳、BASICなどのソフトが最初からROMで搭載されていた。BASICを知らなくても、表計算やワープロが使える便利なパソコンだったのだ。
さらに特筆すべきは、300bpsながらもモデムを内蔵していたことである。このおかげで新聞社、通信社の記者が、ワープロソフトで書いた文章を、電話回線経由で自社のホストコンピューターに送り込むことが可能になったのだ。
このタンディ100は、アスキー創業者の西和彦氏がマイクロソフトの副社長を兼務していた時代に設計を担当し、京セラがOEMで製造を担当したものだ。1983年に発売になるや、この年だけで売り上げは6万台を突破。通算で600万台以上が売れたそうで、これは現在でも単機種での発売台数の記録になっているという。
1984年、ロサンゼルス・オリンピックが開催されたとき、日本の新聞に、「スタンドの記者席で、原稿用紙に鉛筆で記事を書いているのは日本の新聞記者くらいのもの。他の国の記者たちは、ほとんどが小型の電動タイプライターを使っている」という内容の記事が載ったことがある。
陸上競技場の記者席がテレビに映ったとき、デスクの上に並んでいる「電動タイプライター」に注目したら、それはすべてタンディ100だった。日本の新聞記者がタイプライターだと思ったのは、実は小型のパソコンで、記者席から本社のホストコンピューターに電話回線で記事を送り込んでいたのである。この頃、日本の新聞社では、まだFAXが文明の利器だった。日本の新聞社が「ワープロ入稿」と呼ばれるモデムを使った送稿を行なうようになるのは、1980年代後半になってからである。
コンピュサーブ・オートレーシング・フォーラムのスタッフたちが、サーキットで使っていたのも、やはり、このタンディ100だった。「元祖モバイルPC」という称号があるのなら、やはりタンディ100に贈られるべきだろう。そして「元祖モバイラー」あるいは「元祖ロードウォリアー」と呼ばれるべき人たちは、最初にタンディ100を使った新聞社、通信社の記者、あるいはコンピュサーブ・オートレーシング・フォーラムのスタッフのような人たちになるはずだ。
ぼくもタンディ100とオンラインジャーナリストの存在を知り、ぜひともタンディ100を買ってオンラインジャーナリストを気取りたいと思ったが、残念なことに日本では販売されていなかった。
そのかわりに日本では、タンディ100の兄弟、あるいは従兄弟ともいえる携帯パソコンが発売されていた。NECのPC-8201である。これはタンディ100と同じく京セラのOEM製品で、タンディ100からモデムと表計算ソフトのマルチプランを取り除き、かわりに半角カタカナのフォントを搭載したものだった。エプソンのHC-20と同じように、在庫管理などでの使用を考慮されたのか、バーコード・リーダーの接続端子までついていた。
1985年頃までの日本では、パソコンもごく限られた人たちが使うだけで、日本語ワープロも、まだ「高値の花」だった。とくに究極の文科系人間の多い新聞記者には、タンディ100のような「ジャーナル・マシン」としての機能は、無用の長物と判断されていたのだろう。
つづく
2009年02月20日
電子コミック第2弾『マシン刑事999』

本日(2月20日)、eBookJapanより『ゲームセンターあらし』につづく、すがやみつる作品の第2弾として、『ひみつ指令マシン刑事999』(講談社「テレビマガジン」連載)が電子コミックとして販売開始になりました。
あの懐かしいマンガをもう一度読んでみたい方、ぜひ、ダウンロードしてみてください。
★eBookJapan『ひみつ指令マシン刑事999』
(Windows XP、Vista、2000専用です)
2009年02月14日
今年のバレンタインチョコ!
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パッケージのイラストは、左から長女(パソコンのデジタル画)、カミサン(ペンにスミをつけて描いたアナログ画)、次女(パソコンのドット絵)の作品です。
チロルチョコのサイトで注文できるDECOチョコというサービスを利用したそうですが、すぐに食べたらバチが当たりそう……。
しばらく飾っておくことにします。
(画像をクリックすると拡大表示されます)










