2012年03月27日

早稲田大学卒業式

日比谷公園 3月25日(日)は、早稲田大学人間科学部eスクールで教育コーチとして演習指導を担当する女子学生の結婚披露パーティー。会場は、めったに出かけることのない日比谷公園内のウェディング施設。少し早めについたので、マンガの背景に使えるかも……ということで、写真をパチリパチリ。

 パーティーの方は、たくさんの学友があつまり、ほんわり温かな雰囲気。最後は、少し寒くなった屋外で記念撮影。なんだかクリスマスみたいな雰囲気でもありました。

 26日(日)は早稲田大学の卒業式。学位記授与シーンの写真撮影を手伝い、お茶会、追いコン、二次会をすませ、帰宅したのは深夜でした。

 卒論指導を担当した学生たちも無事に送り出した後は、心を切り替え、新学期の準備です。4月からは早稲田大学人間科学部eスクールの教育コーチに加え、京都精華大学での非常勤講師もはじまるので、そちらの準備もしなければなりません。あ、その前にマンガの仕事もあったのでありました(汗)。



  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 16:13キャンパスライフ

2012年03月22日

訃報:石黒昇さん、亡くなる

 アニメ監督でアニメスタジオ「アートランド」代表の石黒昇さんが亡くなりました。今日の昼間、亡くなったらしいという知らせだけ受け、詳しいことがわからなかったのですが、夜になって親しくしていた方から連絡をいただきました。その直後にネットのニュースでも報じられはじめました。

 石黒さんとは、虫プロ出身の作家・石津嵐さんのお宅で会ったのが最初です。1973年頃だったでしょうか。その後、『宇宙戦艦ヤマト』が再放送でブレイクし、「月刊OUT」で特集が組まれたときには、石黒さんのインタビューも掲載されました。

 この雑誌が出た直後、石黒さんに会いたいという女子中学生と対面するため、石津さん宅に出向いてきて、いろいろ質問攻めに合っていましたが、

「最近、あちこちでサインを求められるんだよ。アニメの裏方がサイン求められるなんてことなかったら、なんか恥ずかしくてさ……」

 と照れくさそうにしていたのをよく憶えています。

 この頃のことについては、当ブログの以下の記事で。石黒さんとのツーショット写真も載っています。

・『宇宙戦艦ヤマト』の頃

 そういえば、ぼくが『激走ルーベンカイザー』というアニメ作品に関わったときは、裏番組のアニメに関わっていたはずなのに、こちらの番組をストップウォッチ片手にチェックしてくれた……なんてこともありました。

 毎年、暮れには、石津嵐さんの誕生祝いを兼ねた忘年会があって、年に一度、この会で会っては近況を報告し合うのが恒例になっていました。昨年暮れの忘年会でも顔を合わせ、「大学で教えることになりました」なんてことを報告したばかりだったのですが……。

 以下の2010年暮れの忘年会とぼくの還暦祝いを兼ねたパーティーについての記事にも、石黒さんとのスリーショット写真が掲載されています。

・石津嵐さん生誕&すがや還暦パーティー

「鳥よ、飛び立て」より 左の画像は、先日、こちらで紹介した実録風アニメ業界マンガ『鳥よ、飛び立て!!』の1ページです。


 石黒さん、どうぞ、やすらかにおやすみください。

  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 00:42マンガ/アニメ

2012年03月13日

石井いさみ・望月三起也両先生のトークショーに参加

 昨日(3月11日〈日〉)は、阿佐ヶ谷ロフトAで開催された山田ゴロ君主宰の『石ノ森スピリッツ/ライダーズミーティング』 に出かけてきました。

 『ライザーズミーティング』というのは『仮面ライダー』の「ライダー=バイクの乗り手」という強引な設定(こじつけ?(笑))で、『750ライダー』の石井いさみ先生と『ワイルド7』の望月三起也先生がゲストでした。

 石井先生とは30年ほど前、永島慎二先生も交えて3人でサイン会をしたことがありますが、お会いするのは、それ以来。

 そして望月先生には、いまだお会いしたことがなく、連載デビュー作の『ムサシ』以来のファンだったこともあり、本日は、ファン・モードで、ちゃんと入場料を払って(^_^;)、参加させていただきました。

 吉祥寺から総武線の電車に乗ったのですが、総武線に乗ったら降りるのは高円寺、というのがクセになっていたため、ハッと気づいたら阿佐ヶ谷を通り越しておりました(泣)。高円寺で折り返して会場に向かったのですが、おかげで開演時刻に遅刻。到着したときには石井先生のトークライブが始まっておりました。

 石井先生のデビュー作の画像も見られたりで、最後は直筆サインがもらえるジャンケン大会にも参加。最後の2人まで残ったのに、そこで負けました(泣)。

 つづいて望月三起也先生のトークライブになったのですが、休憩時間中に司会役の山田ゴロ君に「望月先生のファン」であることを話したばかりに、途中でステージから呼ばれて、望月先生の横で喋りに参加することに。

 ゴロちゃんの司会に割り込んで、「雑誌デビュー作の『ムサシ』で、主人公のムサシが持つ拳銃が、なぜ「南部26年式」という渋いものになったのか?」と質問したり(西部劇を書きたかったのにダメと言われて、舞台をアマゾンに移した西部劇にしたのだそうです)、「リアルの中にウソを交える」という話題のところで『秘密探偵JA』に出てきた「トランプ飛ばし(トランプのカードの縁をちぎり、それを投げると、迷路のような廊下を右に左にカーブしながら飛んでいく)」の例を出したり。

※写真はクリックで拡大。

『ムサシ』もそうだし『最前線』の日系部隊もそうだけれど、どこかエトランゼ(異邦人)のような主人公が多いのは、外国人との交流が多い横浜で生まれ育った経歴せいらしい。

 ぼくは、編集プロ勤務時代に、少年画報社から出ていた『ワイルド7』のコミックス第1巻と第2巻を編集した経験もあったので、そんなことも話題に出しました。つまり、この2冊は、ナマ原稿で読んでいたわけです。

 印象に残ったのは、「少年画報社の編集者からは、いつも『うちの読者は山向こうに住む子どもたちだから』ということをしきりに言われた」という言葉。都会の子どもではなく、地方に住む子どもを意識して作品を描くように……という意味です。これが、「何がなんでも読者を喜ばせてやろう」いう楽しさあふれる作品づくりにつながっているのでしょう。

 ぼくが『ゲームセンターあらし』を描いていたとき、担当編集者は、二言目には「賢明なる100万読者」という言葉を持ち出しました。まだ30万部くらいの部数だった頃だと思いますが、それでも100万人に通用するような「わかりやすいマンガにしてほしい」という編集者の要望が、このような言葉になって出てきたものです。

 望月三起也、石井いさみ、といった娯楽の王道を走っていたマンガ家の作品は、評論や研究の対象になる機会がありません。クールジャパンという輸出産業としてのマンガばかりに目を向けないで、『ワイルド7』や『750ライダー』のようなドメスティックな娯楽マンガ――すなわち「山向こうに住む読者を対象にしたマンガ」にも、もう少し目を向けてほしいなあと思った次第でありました。

 イベント終了後は、次の予定が入っていた望月先生をお見送りした後、石井いさみ先生を囲んで打ち上げ。さらに、そのあとは、石井先生の高校の後輩ということでイベントに来ていた石ノ森章太郎ファンクラブの青柳誠会長と、高円寺に寄り道して終電車まで日本酒。

 青柳君と最初に会ったのは17歳の高校2年生のとき。新宿にあったコボタンというマンガ喫茶で、「(石ノ森章太郎先生が名誉会長の同人誌のメンバーなんだから)あなたたちは入らなきゃダメでしょう」と勧誘され、ひおあきら、細井ゆうじたちと一緒に入会させられたのですが、上京した後は会費も払わずに自然退会。ただし、会員番号は、そのまま生きているとのこと。確か会員番号は14番(0014)だったはずだったけれど、再入会しようかな(^_^;)。

 ひさびさに日本酒を飲んだら、帰宅後はバタンギューでした。

  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 02:31マンガ/アニメ

2012年03月10日

モバイルPCの歴史

(写真はクリックで拡大)
モバイルPC
モバイルPC
モバイルPC
モバイルPC
モバイルPC
モバイルPC
モバイルPC
 ちょっとワケありで、モバイルPCの歴史を再確認しているのですが、モバイルコンピューティングが最初に発達したのは、やっぱりスポーツジャーナリズムの世界じゃないんですかね。

 アメリカでは、オズボーン1(12kg)、初代Mac(7.48kg)だって可搬型コンピューターでしたが、携帯パソコンといえば、やはり脇に抱えることのできるハンドヘルド・コンピューターが思い浮かびます。

 その嚆矢はエプソンのHC-20あたりでしょうが、最初のヒット製品になったのはTandy TRS-80 Model 100(通称タンディ100)でした。簡易ワープロ(エディター)、表計算(マルチプラン)、通信ソフト&モデムが内蔵されていて、これだけあればちょっとした仕事もできますが、最も活用したのは新聞社、通信社の記者たちではないでしょうか。1984年のロサンゼルス・オリンピックのときには記者席にズラリとTandy 100が並んでいたのですが、日本の新聞記者は、これを「電子タイプライター」と誤認していたようです。

 タンディ100は600万台も売れ、パソコンの単一機種発売台数としては、いまも、この記録は破られていないのではないでしょうか。

 後継機種のタンディ200も記者に愛用されるジャーナルマシンとなりましたが、どんな機能なのか試してみたくて、アメリカ人の友人がネットで売りに出していたのを購入してみました。液晶ディスプレイが折りたたみ式になり、そのおかげで画面も広くなっています。このタンディ200の製造中止がアナウンスされたときは(京セラのOEMだった)、海外の新聞記者2人ほどから、ぼくの持っているマシンを売ってほしいというメールが届くほどの人気機種でした。MS-DOSベースの東芝のT-1000シリーズが人気を集め、タンディ200は時代遅れになってしまっていたのですが、DOSの知識なしでも使える点が文系記者たちの人気を集めていたのでしょう。

 アメリカのレース記者たちがタンディ100、200を使っていることを知り、その影響でぼくが最初に買ったモバイルPCは、NECのPC-8201でした。タンディ100と基本設計(設計はマイクロソフト)は同じで、やはり京セラのOEMでした。1985年にパソコン通信を始めた直後のことです。

 ただしPC-8201には、表計算ソフトも入っていなければモデムもなし。バーコードリーダーが接続できるようになっていましたが、これが当時の日本の携帯PCの使われ方を物語っています。

 ぼくはパソコン通信のために買いましたが、日本語は半角片仮名のみ。これでも間に合ったのは、日本のパソコン通信ネットでは、漢字が使える人が少なかったからです。メールもBBSの書き込みも、ほとんどが半角片仮名で、昔の電報が飛び交っているような感じでした。

 ぼくはPC-8201を抱えてサーキットに出かけては、日本のアスキーネットやアメリカのCompuServe(コンピュサーブ)にレース速報を送っていたのですが、もちろん、気分はオンライン・ジャーナリストでした。

 しかし、すぐにPC-9801などの16ビットPCが普及し、全角の漢字も使えるようになりました。そこで買ったのが富士通のFM-16π(パイ)。CP/MをOSにした16ビットPCで、データの記録用にマイクロカセットがついていました。

 FM-16πを3年以上使い倒した後、1989年に東芝から発売されたJ-3100SSダイナブックを購入します。付属のACアダプターが大きかったので、ネットで仕入れた情報を元に、秋葉原でパーツを買ってACアダプターを自作したり……なんてことをしながら、この後はダイナブック・シリーズを3機種ほど使いつづけます。

 外出先で原稿を書くことが多いので、どうしても欲しいのはバッテリーが長持ちして、しかも軽いもの。その結果、パナソニックのミニノートに乗り換え、以後、ずっとレッツノート・シリーズを使いつづけています。

 こんな機種以外にも、ワープロも含めて色んな機種を試してみました。この写真に写っているのは、手元に残っている機種の一部(ほとんどかな?)。いまにして思えば、けっこうレアな機種もありますね(^_^)。

 ぼくがスマホやディスプレイ端末に必然性を感じないのは、いつもたいていノートパソコンを持っているから。フルキーボードが使えないとスラスラと原稿が書けないからです。スマホやディスプレイ端末は情報の「受信機」ですが、ぼくに必要なものは情報の「送信機」なんです。

 こういうことを書くと、「iPadでも原稿が書ける」なんてことを言う人が必ず出てきますが、必要とされる文章の量と速度が違うことを理解してくださいm(_ _)m。

※写真に写っているモバイルPCの機種がわかった方は、ツイッターでご報告ください(^_^)。

https://twitter.com/msugaya

  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 13:14パソコン/ネット

2012年03月10日

『仮面ライダー青春譜』増刷に向けて!

『仮面ライダー青春譜』表紙 発売から半年が過ぎました。このあたりで、増刷に向けて、もう一押し!

『仮面ライダー青春譜――もうひとつのマンガ昭和史』(すがやみつる/ポット出版/2011年8月刊/1,995円)

 まだまだ絶賛発売中です~!

 できれば増刷だけでなく、続編の執筆もめざして(^_^)


  

Posted by すがやみつる/菅谷充 at 11:52マンガ/アニメ