2008年10月18日
■『仮面ライダー青春譜』第68回
第7章『仮面ライダー』騒乱記
●編集者の経験を活かす
石森プロの仕事が増え、臨時のアシスタントを頼む機会も増えたことから、少し広いアパートに引っ越すことにした。最寄り駅は、同じ地下鉄丸の内線の東高円寺。青梅街道沿いの駅を挟んで反対側になる。
これまでの部屋は、六畳一間に小さな台所がつき、トイレは共同だった。新しいアパートは、六畳と三畳が一部屋ずつに三畳ほどのキッチンがつき、トイレも室内にあった。四畳半一間のアパートからスタートしたことを考えると、大した出世である。
さらに、もう一部屋、四畳半の部屋を近所に借り、郷里から呼んだ母の住まいにした。仕事が忙しくなったのはよかったが、一日二食が店屋もの、残り一食がインスタントラーメンか発売になったばかりのカップヌードル――という生活をつづけていたら、栄養失調のような症状が出て、見るに見かねた母がメシスタントとして上京してくることになったものだ。母の引っ越し費用には、ジョージ秋山氏からいただき、母に送ってあったアシスタント代を使わせていただいた。
石ノ森章太郎先生のアシスタントを退職した津原義明、「墨汁三滴」の後輩になる、ほしの竜一といった面々が手伝ってくれたのだが、母の食事が好評で、みんな喜んで仕事を来てくれた。それもそのはずで、母は割烹旅館で板前をしていたプロの調理師だったのだ。
若いアシスタントたちにとっては、「こんな料理、生まれてはじめて食べた」というような豪勢な料理も多かった。そのせいか、仕事に来るときには頬がこけていたのに、一週間ほど泊まり込みで仕事をしているうちに、二重顎になるアシスタントもいたほどだ。
食事が豪勢だということが有名になっていたおかげで、アシスタントの確保には困らずにすんだが、問題は、その食費だった。原稿料が安かったため、食費とアシスタント代、アパートの家賃などを払うと、手元には、ほとんどお金が残らない状態だった。
アシスタントの給料を払ったら銀行の残高がなくなってしまい、取材に使うからといってイトコから借りた一眼レフカメラを質入れしたこともある。母が持っていたダイヤの指輪も、何度も質屋に出入りしたものだ。
月産三〇〇ページを超える仕事をこなしていたのに、いわゆる〈連載貧乏〉という状態におちいってしまったのだ。
それでも仕事を減らそうとは思わなかった。この段階では、石森プロの仕事が大半で、〈お金をいただきながら練習させていただいている〉という意識を持っていたからだ。
連載マンガの仕事だけでは生活が厳しいので、雑誌のマンガ以外の仕事もやることにした。デパートの屋上で開催される『ウルトラマン・ショー』の新聞チラシのイラストやベビーダンスにつけるワンポイント・イラスト。少しあとになるが、アニメ『アルプスの少女ハイジ』の音楽カセットテープのパッケージイラストも描いたことがある。
雑誌では、編集プロ勤務時代の経験を活かして、雑誌のクイズやバラエティのページを丸ごと請け負う仕事である。アイデアから誌面構成、作画、そして文字指定などの入稿作業までを、すべてひとりでやってしまうのだ。このような仕事には、通常、アイデアマンか構成作家にマンガ家、編集者が参加したが、これをひとりでまかなってしまうため、編集部にとっては便利な存在になった。しかもギャラも割り増しになるため、とても助かった。
石森プロの紹介で絵本の仕事をしたときも、やはりアイデアから入稿までをセットで請け負った。幼児向けの絵描き歌の絵本では、絵描き歌の歌詞から画面構成、作画、そしてネームや色指定までをひとりでやってしまうのだ。こちらもマンガの原稿料以外に、構成料や編集料が上乗せされたため、とても助かったものだ。
編集をしていた経験が、レギュラーの仕事に役立ったこともある。『仮面ライダー』を連載していた「冒険王」を発行する秋田書店では、この頃、労働組合ができ、社員が待遇改善を求めてストライキをすることがあった。
ストライキ中の秋田書店のビルには、窓やドアにベタベタとポスターが貼られていたが、そのなかに吾妻ひでおさんの絵が使われていたこともある。おそらく担当編集者に頼まれていた描いたものにちがいない。過激な言葉が並ぶポスターの中で、吾妻さんのイラスト付きのポスターは、ちょっと脱力気味に浮いていたものだ。
ストライキになると非組合員の編集長が一人で雑誌を作らなければいけなくなる。壁村さんの後任になった編集長は、以前、隔週だった時代の「少年チャンピオン」で編集長をしていた成田清美さんだった。
その頃、鈴木プロにいたぼくは、「少年チャンピオン」の柱の原稿を書いたり、企画ページの仕事で、何度も秋田書店に通っていた。まだ水道橋に社屋があった頃のことだ。秋田書店がストライキになったとき、東高円寺の喫茶店まで『仮面ライダー』の原稿を取りに来てくれた成田さんは、ぼくが編集者をしていたことを覚えていた。
「ひとりで全作品を入稿していて、今日も完徹状態で、頭が働く状態じゃないんだ。悪いんだけど、トビラのあおり文句と最終ページの引きの文句を作ってくれない?」
いつもスーツ姿でビシッと決めている成田さんが、この日は、ノーネクタイのワイシャツ姿で、無精髭を伸ばしたままだった。頬もゲッソリとこけて、いかにも疲労困憊という様子だった。
「わかりました」
ぼくが差し出された原稿用紙に、トビラにつけるアオリの文句と最終ページにつける引きの文句を書き、ついでに写植の級数指定をしている間、成田さんは昏倒するように、祖ファンにもたれて眠っていた。
アオリとは、マンガの扉に入る「忍びよるショッカーの影。ライダーにしかけられる罠!」といったキャッチコピーのこと。「引き」とは、マンガの最後のページの欄外に入る「ライダーの活躍で地球の危機は去った。しかし、死神博士は、さらに強力な怪人を呼び寄せた。負けるなライダー、地球を守れ!」といったコピーのことである。
ストライキで会社がロックアウトされると、非組合員の編集長の依頼で、自分で描いたマンガのネームを自分でとることもあった。
トレペに吹き出しの形を写し、セリフを書き写してから、書体と級数の指定をする。
担当編集者は、ぼくがネームをとったトレペを写植屋さんに渡すだけでいい。こんな便利なマンガ家は、ほかにはいなかったことだろう。
「テレビマガジン」に連載していた『仮面ライダーV3』の原稿が遅れに遅れて完成が深夜になったとき、原稿を抱えてタクシーで講談社の編集部まで出向き、自分で入稿作業をしたこともある。新人だった担当編集者にカラーの入稿経験がなく、朝になって出社してくる別の編集者に入稿してもらうまで、帰宅できないと話していたからだ。
音羽の講談社にタクシーで駆けつけたぼくは、「テレビマガジン」の編集部で自分の原稿に2枚ずつトレペをかけた。1枚にはネームを書き写して級数指定をすると、大山スタジオという写植屋さん宛ての箱に入れる。もう1枚にはタイトル文字や書き文字の色指定、V3のヘルメットの色を明るくするといったレタッチの指定をし、共同印刷宛ての箱に原稿をともに入れる。鈴木プロにいた頃、「少年マガジン」や「ぼくらマガジン」の編集部に詰めて、あれこれ入稿作業をしていた経験があるので、このあたりは、昔とった何とやらである。
編集の経験があったおかげで、カラー原稿の書き文字も、最初は絵の具で色を塗っていたが、すぐに色は塗らずにトレペで色指定するようになった。色を塗ったところで編集者に「濁りトル」だの「キアカ調に」などと指定され、色をクリアにされることが多いので、それなら最初から指定ですませた方が手っ取り早い――というわけである。「キアカベタ」「キ100%、アイ30%」といった色指定は、編集プロの仕事で慣れっこになっていた。
こうしてアルバイトやら仕事の合理化やらで、なんとか食いつないでいた頃、突然、っ予想もしなかった人から電話がかかってきた。電話の主は、「冒険王」連載の『新・仮面ライダー』1回目で、ぼくをクビにしようとした、あの壁村編集長だった……。
つづく
●編集者の経験を活かす
石森プロの仕事が増え、臨時のアシスタントを頼む機会も増えたことから、少し広いアパートに引っ越すことにした。最寄り駅は、同じ地下鉄丸の内線の東高円寺。青梅街道沿いの駅を挟んで反対側になる。
これまでの部屋は、六畳一間に小さな台所がつき、トイレは共同だった。新しいアパートは、六畳と三畳が一部屋ずつに三畳ほどのキッチンがつき、トイレも室内にあった。四畳半一間のアパートからスタートしたことを考えると、大した出世である。
さらに、もう一部屋、四畳半の部屋を近所に借り、郷里から呼んだ母の住まいにした。仕事が忙しくなったのはよかったが、一日二食が店屋もの、残り一食がインスタントラーメンか発売になったばかりのカップヌードル――という生活をつづけていたら、栄養失調のような症状が出て、見るに見かねた母がメシスタントとして上京してくることになったものだ。母の引っ越し費用には、ジョージ秋山氏からいただき、母に送ってあったアシスタント代を使わせていただいた。
石ノ森章太郎先生のアシスタントを退職した津原義明、「墨汁三滴」の後輩になる、ほしの竜一といった面々が手伝ってくれたのだが、母の食事が好評で、みんな喜んで仕事を来てくれた。それもそのはずで、母は割烹旅館で板前をしていたプロの調理師だったのだ。
若いアシスタントたちにとっては、「こんな料理、生まれてはじめて食べた」というような豪勢な料理も多かった。そのせいか、仕事に来るときには頬がこけていたのに、一週間ほど泊まり込みで仕事をしているうちに、二重顎になるアシスタントもいたほどだ。
食事が豪勢だということが有名になっていたおかげで、アシスタントの確保には困らずにすんだが、問題は、その食費だった。原稿料が安かったため、食費とアシスタント代、アパートの家賃などを払うと、手元には、ほとんどお金が残らない状態だった。
アシスタントの給料を払ったら銀行の残高がなくなってしまい、取材に使うからといってイトコから借りた一眼レフカメラを質入れしたこともある。母が持っていたダイヤの指輪も、何度も質屋に出入りしたものだ。
月産三〇〇ページを超える仕事をこなしていたのに、いわゆる〈連載貧乏〉という状態におちいってしまったのだ。
それでも仕事を減らそうとは思わなかった。この段階では、石森プロの仕事が大半で、〈お金をいただきながら練習させていただいている〉という意識を持っていたからだ。
連載マンガの仕事だけでは生活が厳しいので、雑誌のマンガ以外の仕事もやることにした。デパートの屋上で開催される『ウルトラマン・ショー』の新聞チラシのイラストやベビーダンスにつけるワンポイント・イラスト。少しあとになるが、アニメ『アルプスの少女ハイジ』の音楽カセットテープのパッケージイラストも描いたことがある。
雑誌では、編集プロ勤務時代の経験を活かして、雑誌のクイズやバラエティのページを丸ごと請け負う仕事である。アイデアから誌面構成、作画、そして文字指定などの入稿作業までを、すべてひとりでやってしまうのだ。このような仕事には、通常、アイデアマンか構成作家にマンガ家、編集者が参加したが、これをひとりでまかなってしまうため、編集部にとっては便利な存在になった。しかもギャラも割り増しになるため、とても助かった。
石森プロの紹介で絵本の仕事をしたときも、やはりアイデアから入稿までをセットで請け負った。幼児向けの絵描き歌の絵本では、絵描き歌の歌詞から画面構成、作画、そしてネームや色指定までをひとりでやってしまうのだ。こちらもマンガの原稿料以外に、構成料や編集料が上乗せされたため、とても助かったものだ。
編集をしていた経験が、レギュラーの仕事に役立ったこともある。『仮面ライダー』を連載していた「冒険王」を発行する秋田書店では、この頃、労働組合ができ、社員が待遇改善を求めてストライキをすることがあった。
ストライキ中の秋田書店のビルには、窓やドアにベタベタとポスターが貼られていたが、そのなかに吾妻ひでおさんの絵が使われていたこともある。おそらく担当編集者に頼まれていた描いたものにちがいない。過激な言葉が並ぶポスターの中で、吾妻さんのイラスト付きのポスターは、ちょっと脱力気味に浮いていたものだ。
ストライキになると非組合員の編集長が一人で雑誌を作らなければいけなくなる。壁村さんの後任になった編集長は、以前、隔週だった時代の「少年チャンピオン」で編集長をしていた成田清美さんだった。
その頃、鈴木プロにいたぼくは、「少年チャンピオン」の柱の原稿を書いたり、企画ページの仕事で、何度も秋田書店に通っていた。まだ水道橋に社屋があった頃のことだ。秋田書店がストライキになったとき、東高円寺の喫茶店まで『仮面ライダー』の原稿を取りに来てくれた成田さんは、ぼくが編集者をしていたことを覚えていた。
「ひとりで全作品を入稿していて、今日も完徹状態で、頭が働く状態じゃないんだ。悪いんだけど、トビラのあおり文句と最終ページの引きの文句を作ってくれない?」
いつもスーツ姿でビシッと決めている成田さんが、この日は、ノーネクタイのワイシャツ姿で、無精髭を伸ばしたままだった。頬もゲッソリとこけて、いかにも疲労困憊という様子だった。
「わかりました」
ぼくが差し出された原稿用紙に、トビラにつけるアオリの文句と最終ページにつける引きの文句を書き、ついでに写植の級数指定をしている間、成田さんは昏倒するように、祖ファンにもたれて眠っていた。
アオリとは、マンガの扉に入る「忍びよるショッカーの影。ライダーにしかけられる罠!」といったキャッチコピーのこと。「引き」とは、マンガの最後のページの欄外に入る「ライダーの活躍で地球の危機は去った。しかし、死神博士は、さらに強力な怪人を呼び寄せた。負けるなライダー、地球を守れ!」といったコピーのことである。
ストライキで会社がロックアウトされると、非組合員の編集長の依頼で、自分で描いたマンガのネームを自分でとることもあった。
トレペに吹き出しの形を写し、セリフを書き写してから、書体と級数の指定をする。
担当編集者は、ぼくがネームをとったトレペを写植屋さんに渡すだけでいい。こんな便利なマンガ家は、ほかにはいなかったことだろう。
「テレビマガジン」に連載していた『仮面ライダーV3』の原稿が遅れに遅れて完成が深夜になったとき、原稿を抱えてタクシーで講談社の編集部まで出向き、自分で入稿作業をしたこともある。新人だった担当編集者にカラーの入稿経験がなく、朝になって出社してくる別の編集者に入稿してもらうまで、帰宅できないと話していたからだ。
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| カラー指定の例。作例は『こんにちはマイコン』の2色ページ。上から原画、色指定をした状態(実際にはトレペの上から指定)、印刷されたページ。画像をクリックすると拡大表示されます。 |
編集の経験があったおかげで、カラー原稿の書き文字も、最初は絵の具で色を塗っていたが、すぐに色は塗らずにトレペで色指定するようになった。色を塗ったところで編集者に「濁りトル」だの「キアカ調に」などと指定され、色をクリアにされることが多いので、それなら最初から指定ですませた方が手っ取り早い――というわけである。「キアカベタ」「キ100%、アイ30%」といった色指定は、編集プロの仕事で慣れっこになっていた。
こうしてアルバイトやら仕事の合理化やらで、なんとか食いつないでいた頃、突然、っ予想もしなかった人から電話がかかってきた。電話の主は、「冒険王」連載の『新・仮面ライダー』1回目で、ぼくをクビにしようとした、あの壁村編集長だった……。
つづく
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http://sugaya.otaden.jp/t10804
ウ~ム、今までマンガ家さんの仕事内容に比べ編集者さん側のソレってイマイチよく分からない部分があったんですけど…一部を垣間見させて頂くだけでも、やっぱり大変なんですねぇ(@_@;)
ご経験があったとはいえ、それらを一度に請け負ってしまうとは、すがや先生のタフさには、実に恐れ入ってしまいます…。
でもアオリの文句を入れる事なども含め、読者の目に触れる段階にまで“自分自身の手で”作品を仕上げたんだという充実感は、持つ事が出来たのでしょうねッ!!
ご経験があったとはいえ、それらを一度に請け負ってしまうとは、すがや先生のタフさには、実に恐れ入ってしまいます…。
でもアオリの文句を入れる事なども含め、読者の目に触れる段階にまで“自分自身の手で”作品を仕上げたんだという充実感は、持つ事が出来たのでしょうねッ!!
Posted by テレビレテ at 2008年10月19日 01:06
あれこれ仕事の手を広げましたが、その理由は、なんといっても「生活のため」でした(^_^;)。
Posted by すがやみつる/菅谷充 at 2008年10月19日 22:37
すがや先生はじめまして。
ゲームセンターあらしとこんにちはマイコンの洗礼を受けて育った者です。
マンガで多忙だった先生が、ゲームセンターはともかく
当時、資料もかなり少なかったであろうマイコンに
ここまで興味が湧いた流れが、今でも謎のままです。
いつかこのブログ上で、先生とマイコンとの邂逅についても
触れていただけたら・・・と思っております。
ゲームセンターあらしとこんにちはマイコンの洗礼を受けて育った者です。
マンガで多忙だった先生が、ゲームセンターはともかく
当時、資料もかなり少なかったであろうマイコンに
ここまで興味が湧いた流れが、今でも謎のままです。
いつかこのブログ上で、先生とマイコンとの邂逅についても
触れていただけたら・・・と思っております。
Posted by 辛苦レアZX81 at 2008年10月24日 01:01
>辛苦レアZX81さん、ようこそ!
お名前の由来が反射的にわかってしまうのが、なんともはやのトホホです(^_^;)。1982年にルマン24時間レースを見にいったとき、イギリスのヒースロー空港で乗り継ぎしたのですが、待ち時間の間に売店に飾ってあったシンクレアをしげしげと眺めてきました。ペタンコな紙のようなキーボードでしたね。日本では三省堂が販売したはずですが。
パソコンとの関わりについては、自分のサイトのブログに掲載していたことがありますが、データベースのトラブルで削除してしまいました。『仮面ライダー青春譜』が終わったら掲載しますので、もうしばらくお待ちください。
お名前の由来が反射的にわかってしまうのが、なんともはやのトホホです(^_^;)。1982年にルマン24時間レースを見にいったとき、イギリスのヒースロー空港で乗り継ぎしたのですが、待ち時間の間に売店に飾ってあったシンクレアをしげしげと眺めてきました。ペタンコな紙のようなキーボードでしたね。日本では三省堂が販売したはずですが。
パソコンとの関わりについては、自分のサイトのブログに掲載していたことがありますが、データベースのトラブルで削除してしまいました。『仮面ライダー青春譜』が終わったら掲載しますので、もうしばらくお待ちください。
Posted by すがやみつる/菅谷充 at 2008年10月24日 02:04
(当ブログの内容に無関係のトラックバック、コメントは削除させていただきますので、ご了承ください。メールアドレス、URLの登録は禁止させていただきました)






