2008年10月26日

■『仮面ライダー青春譜』第70回

 第7章 『仮面ライダー』騒乱記

●初のオリジナルマンガ

「月刊少年チャンピオン」に『ベン・ハー』を描いた直後、仕事の打ち合わせがあって石森プロに出かけると、マネージャーが電話に向かって何やら大声で話していた。
 ぼくの姿を見たマネージャーは、隣の執筆室を指さした。細井ゆうじ、土山よしき、山田ゴロ、成井紀郎といったメンバーが、石森プロで仕事をするときに使っていた広い部屋だ。スチールデスクと椅子が一〇人分ほど並んでいる。「少年サンデー」連載の『人造人間キカイダー』も、毎週、ここで仕上げられていた。
 椅子に座ってマネージャーの電話が終わるのを待っていたが、電話は長引いていた。どうやら石ノ森先生が引き受けた読み切りの仕事が、スケジュールの関係で執筆できなくなり、そのことで編集者から苦情をいわれているらしい。事務室との間のドアが開けっ放しになっていたため、マネージャーの声は筒抜けだった。
「そんな、急にピンチヒッターといわれても……」
 マネージャーの声のトーンが変わった。石ノ森先生が描けないのなら、誰か代役を紹介しろと詰め寄られているらしい。開いたドアの向こうにいたマネージャーが、一瞬、ぼくの方に困った顔を向けた。
 ぼくは、ほとんど反射的に右手を挙げた。ピンチヒッターに名乗りを挙げたつもりだったのだ。
「ここにひとり、活きのいいのがいるんだけど、会ってみます……?」
 ぼくの意図を察したマネージャーも、やはり反射的にぼくを売り込んでくれた。阿吽{あうん}の呼吸とは、こういうことをいうのだろう。しかも、次の展開が早かった。
「じゃ、すがやクン。編集者が待っているから、ちょっと会ってきてよ」
 マネージャーが、受話器を置くなり、こういった。なんと石森プロにねじ込むつもりでいた編集者は、目と鼻の先にある喫茶店まで来て、そこから電話をかけていたのだ。携帯電話のない時代だったので、外出先から電話をかけるには、街頭の公衆電話を使ったり、喫茶店に入ってピンク電話を使うのが当たり前だった。
 そんな急な話とは思わなかったので、手元には見本の作品もない。しかたがないので手ぶらで喫茶店に出かけると、「中一時代」(旺文社)の大柄で太った編集者が、憮然とした顔で待っていた。
「で、どんなのを描きたいの?」
 名刺を交換したぼくに、編集者が質問した。海のものとも山のものともつかぬ新人が相手では、不安だったのだろう。
『オレはタカの子』トビラ。
『オレはタカの子』トビラ。
 ぼくは、ストックしてあったストーリーの中から「中一時代」に向いたものをと考え、『オレはタカの子』という短編の構想を話すことにした。石森プロの仕事に入る前、ほとんど失業者状態だったときに、あれこれ考え溜め込んであったストーリーの一本だ。
 部下を事故で死なせことが原因で高所恐怖症になり、酒におぼれて仕事ができなくなった鳶職人と、その息子の物語である。鳶職人をしている腹違いの兄のところでアルバイトをしたこともあり、この危険な職業についても多少の知識があった。
「高所恐怖症の鳶職人ってのがいいね」
 編集者は、その場でストーリーにOKを出してくれたが、締切までは一週間もしかない。しかも初めての完全オリジナル作品である。ぼくは、その日のうちに東海道新幹線に飛び乗って郷里にもどると、兄の家に行き、鳶職人として仕事をしてきた現場の写真を借りてきた。
 急いで東京にもどると、借りてきた写真を見ながらネームに取りかかり、翌日には「中一時代」の編集者に見せることができた。ノートにストーリーの断片は書きつらねてあったが、細かいエピソードまで、すべて頭の中にできあがっていた。三二ページのネームが一晩でできたのも、そのせいだ。
 ネームは、とくに直されることもなく、応援のアシスタントとともに、すぐに作画に取りかかった。
 原稿は四日ほどで完成した。そのことを編集者に電話で伝えると、
「今日、おたくのすぐ近くに住んでいる作家さんのところに、バイク便が原稿を取りにいくことになっているんで、そこにマンガの原稿を預けてくれないかなあ。電話しとくから」
 とのこと。作家の名前と住所を教えられてビックリ。石津嵐という名前に覚えがあったからだ。
 石津嵐という名前は、『鉄腕アトム』のアニメで見覚えがあった。そして、中学生のとき、製紙工場に忍び込んで頂いてきた「鉄腕アトムクラブ」という虫プロ発行の『鉄腕アトム』ファンクラブ向けの雑誌にも、この名前が出ていたのを覚えていた。
 住所を頼りに石津家を探しにいくと、なんと三軒ほど先の向い側にあった家がそうだった。
 玄関から声をかけると、「おう、入れ」という野太い声が聞こえてきた。
 玄関のガラス戸を開き、自己紹介と用件を伝えると、
「ああ、聞いとる、聞いとる。原稿は、そこに置いていきなさい」
 と、下駄箱の上を指さした。そこには別の封筒もあった。石津さんが書いた原稿らしい。
 これが縁で石津さん一家とは、子どもたちまで含めての交際がはじまり、ついには親戚のようなつきあいになるのだから、世の中は不思議なものである。
「中一時代」の増刊号用に描いた『おれはタカの子』という読み切りは、原稿を読んだ編集長が、たいそう気に入ってくれ、なんと本誌での三回連載を発注してくれたのだ。
 こうしてぼくは、「中一時代」に『ハチん子ジプシー』という北海道の牧場を舞台にした養蜂家の一家の物語を連載することになった。このマンガも、いつか描きたいと思って温めていたものだ。
 ベースになったのは、小学生のときに観た赤木圭一郎主演の『幌馬車は行く』という日活アクション映画と、<『星の牧場』(庄野英二)という児童文学だった。どちらも花を追ってジプシーのように旅をする養蜂家の世界が舞台になっていた。
「中一時代」では、その後も隔月くらいのペースで読み切りマンガを描き(なかには『ジャッカルの日』という映画のコミカライズもあった)、ミステリークイズマンガや少女マンガまで連載したことがある。
「中一時代」の仕事は、実にありがたい仕事でもあった。ほかの仕事に比べ、原稿料が二倍以上と高額だったからだ。「中一時代」の仕事が入ったおかげで、ぼくの暮らしは、だいぶ楽になった。

  つづく


Posted by すがやみつる/菅谷充 at 21:25 Comments(2)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

>その日のうちに東海道新幹線に飛び乗って郷里にもどると……ネームに取りかかり、翌日には「中一時代」の編集者に見せることができた。

 す…スゴイ!おくにが静岡でらっしゃるとはいえ、とんぼ返りで故郷との往復をされ(お兄さんも驚かれたのでわ!?)、結果的に24時間前までは予定にも入ってなかったであろうネーム完成にまで漕ぎ付けられたなんて…この時の仕事量も、ハンパじゃなかったでしょうね!(@_@;)
 前のブログの事を合わせても、先生のスピード…スーパーぶりが伺われますゼ!!

>石津嵐先生

 『鳥よ、飛びたて!!』
 …改めて、思い出しました(^^
 お二人のご縁、本当に深いものだったんですね!
Posted by テレビレテ at 2008年10月27日 00:42
テレビレテさん、コメントをありがとうございました。

 郷里の富士市には、当時、東海道新幹線の駅がなかったので、東京駅から三島駅乗り換えで1時間半ほどでした。兄の家は、富士市から分岐している身延線というローカル線の駅の前だったので、乗り継ぎさえうまくいけば5時間もあれば充分に往復が可能でした。

 ストーリーの構成も、ほとんど出来上がっていましたので、ネームには苦労しなかったはずです。長時間かかったネームは、まず受けませんでした。
Posted by すがやみつる/菅谷充 at 2008年10月27日 03:02
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