2008年07月14日
■『仮面ライダー青春譜』第1回
これから掲載する文章は、1989年、パソコン通信サービスの「ニフティサーブ」上にあった「本と雑誌フォーラム」に連載し、その後「すがやみつるホームページ」のblogにも掲載したことのある『ぼくのマンガ青春期』(未完)を全面改稿したものです。
仕事や学業に追われて、何度も完成させようとしながら放置した状態になっていますので、こんどは最後まで書き上げてみたい……という希望的観測を抱いています。
題名は『仮面ライダー青春譜』と改めさせていただきました。マンガ家を志望し、同人誌やアシスタント、編集者などを経験した後、石森プロに拾われ、石ノ森章太郎先生のもとで『仮面ライダー』でデビューし、独立していくあたりまでを書いていく予定です。
では、長い連載になりますが、よろしくおつきあいください。
『仮面ライダー青春譜』
プロローグ
「そろそろ行こうか……」
永井豪さんが、ぼくたちの顔を見ていった。
「そうだな。じゃ行くとするか」
桜多吾作さんの返事に合わせるように、ぼくたちは一斉にソファから腰をあげた。
西武池袋線桜台駅ちかくの喫茶店。そこに集まっていたのは永井豪、桜多吾作、ひおあきら、細井ゆうじ、山田ゴロ、成井紀郎、津原義明、そして、ぼく――すがやみつるの八人。全員が、石ノ森章太郎先生のアシスタント経験者か、石ノ森作品の著作権管理をしていた石森プロの出身者だった。一九九八年二月三日午後のことである。
喫茶店を出たぼくたちは、西武池袋線のガードに沿って練馬駅の方向に歩いていった。
こんな顔ぶれで集まるのは珍しいことだった。たまに会えば必ず交わされる軽口も、この日ばかりは出てこない。全員が、重い足を引きずるようにして歩いていた。
徒歩で向かった先は、桜台駅から十五分ほどのところにある石ノ森章太郎先生の自宅である。石ノ森先生は、六日前の一月二十八日、長い闘病生活の末に、御茶の水の病院で、永い眠りについていた。
先生の死去のニュースが報道されたのは、二日後の三十日になってからだった。家族だけの密葬にしてほしいという先生の遺志で、葬儀がすむまで亡くなったことが伏せられていたらしい。
せめて線香くらい手向けさせていただけないものか――元アシスタントと弟子筋のマンガ家がそろって交渉した結果、ご家族の許しが得られ、この日の訪問となったのだった。
ガードに沿った細い道を進むと、すぐにバス通りに出た。西武池袋線がまだ高架ではなかった頃、踏切があった場所だ。
踏切の脇には一軒のパチンコ店があり、二階が広い喫茶店になっていた。
喫茶店の名は「ラタン」。かつて石ノ森先生は、この喫茶店の専用席で、毎日のようにマンガのネームを入れていた。
専用席ちかくのテーブルには担当編集者がすわり、先生のネームが入るのを待っていた。ネームが一ページ入るたびに、受け取った原稿用紙にトレーシングペーパーを載せ、吹き出しのなかのセリフを写し取っていく。それが編集者の仕事だった。
踏切の北側には交番があった。『マンガ家入門』を読んだマンガ家志望者や、『サイボーグ009』『ジュン』などのファンが、石ノ森先生宅への道をたずねた交番だ。あまりにも多くの若者が道をたずねるため、石ノ森先生の側で用意した専用地図が壁につるされていたこともあった。
そんなことを思い出しながらバス通りに沿った歩道を歩き、途中で脇の路地に入る。住宅街を縫うように走る曲がりくねった細い道は、石ノ森先生の自宅までの抜け道にもなっていた。
「このあたりの景色、あまり変わってないなあ……」
住宅街の裏手に入ると永井さんが、しんみりとした口調でいった。
石ノ森先生が新宿区弁天町から、ここ桜台に引っ越してきたのは一九六六年のこと。永井さんは、その頃、石ノ森先生のところでチーフアシスタントをつとめていた。
ぼくが初めて石ノ森先生のお宅に伺ったときに通ったのも、やはり、この道だった。
一緒に歩いていたのは、いまも横に並んで歩いているひおあきらだった。そう、あれは、忘れもしない三十一年前……一九六七年春のことだった。
つづく
仕事や学業に追われて、何度も完成させようとしながら放置した状態になっていますので、こんどは最後まで書き上げてみたい……という希望的観測を抱いています。
題名は『仮面ライダー青春譜』と改めさせていただきました。マンガ家を志望し、同人誌やアシスタント、編集者などを経験した後、石森プロに拾われ、石ノ森章太郎先生のもとで『仮面ライダー』でデビューし、独立していくあたりまでを書いていく予定です。
では、長い連載になりますが、よろしくおつきあいください。
『仮面ライダー青春譜』
すがやみつる
プロローグ
「そろそろ行こうか……」
永井豪さんが、ぼくたちの顔を見ていった。
「そうだな。じゃ行くとするか」
桜多吾作さんの返事に合わせるように、ぼくたちは一斉にソファから腰をあげた。
西武池袋線桜台駅ちかくの喫茶店。そこに集まっていたのは永井豪、桜多吾作、ひおあきら、細井ゆうじ、山田ゴロ、成井紀郎、津原義明、そして、ぼく――すがやみつるの八人。全員が、石ノ森章太郎先生のアシスタント経験者か、石ノ森作品の著作権管理をしていた石森プロの出身者だった。一九九八年二月三日午後のことである。
喫茶店を出たぼくたちは、西武池袋線のガードに沿って練馬駅の方向に歩いていった。
こんな顔ぶれで集まるのは珍しいことだった。たまに会えば必ず交わされる軽口も、この日ばかりは出てこない。全員が、重い足を引きずるようにして歩いていた。
徒歩で向かった先は、桜台駅から十五分ほどのところにある石ノ森章太郎先生の自宅である。石ノ森先生は、六日前の一月二十八日、長い闘病生活の末に、御茶の水の病院で、永い眠りについていた。
先生の死去のニュースが報道されたのは、二日後の三十日になってからだった。家族だけの密葬にしてほしいという先生の遺志で、葬儀がすむまで亡くなったことが伏せられていたらしい。
せめて線香くらい手向けさせていただけないものか――元アシスタントと弟子筋のマンガ家がそろって交渉した結果、ご家族の許しが得られ、この日の訪問となったのだった。
ガードに沿った細い道を進むと、すぐにバス通りに出た。西武池袋線がまだ高架ではなかった頃、踏切があった場所だ。
踏切の脇には一軒のパチンコ店があり、二階が広い喫茶店になっていた。
喫茶店の名は「ラタン」。かつて石ノ森先生は、この喫茶店の専用席で、毎日のようにマンガのネームを入れていた。
専用席ちかくのテーブルには担当編集者がすわり、先生のネームが入るのを待っていた。ネームが一ページ入るたびに、受け取った原稿用紙にトレーシングペーパーを載せ、吹き出しのなかのセリフを写し取っていく。それが編集者の仕事だった。
踏切の北側には交番があった。『マンガ家入門』を読んだマンガ家志望者や、『サイボーグ009』『ジュン』などのファンが、石ノ森先生宅への道をたずねた交番だ。あまりにも多くの若者が道をたずねるため、石ノ森先生の側で用意した専用地図が壁につるされていたこともあった。
そんなことを思い出しながらバス通りに沿った歩道を歩き、途中で脇の路地に入る。住宅街を縫うように走る曲がりくねった細い道は、石ノ森先生の自宅までの抜け道にもなっていた。
「このあたりの景色、あまり変わってないなあ……」
住宅街の裏手に入ると永井さんが、しんみりとした口調でいった。
石ノ森先生が新宿区弁天町から、ここ桜台に引っ越してきたのは一九六六年のこと。永井さんは、その頃、石ノ森先生のところでチーフアシスタントをつとめていた。
ぼくが初めて石ノ森先生のお宅に伺ったときに通ったのも、やはり、この道だった。
一緒に歩いていたのは、いまも横に並んで歩いているひおあきらだった。そう、あれは、忘れもしない三十一年前……一九六七年春のことだった。
つづく
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