2008年07月02日
■うまくなりたければ量を描け(石ノ森章太郎先生の言葉)

一昨日(7月30日)、日本推理作家協会賞の授賞式があった。今年の受賞者は、推理作家協会への入会の際に推薦の労をとってくれた今野敏氏が受賞(『果断 隠微捜査2』)したこともあり、ぜひとも出席したかったのだが、仕事の原稿と大学の卒論の締切が重なり、どうしても身動きとれず、欠席させていただいた。授賞式は今野さんの人柄もあって大盛況だったとか。ああ、行けばよかったなあ。今野さん、おめでとうございます。
その今野さんが、推理作家協会報に寄せた「受賞のことば」は、次のような文章で締めくくられていた。
量を書くことでしか質は向上しない。
これは、故・石ノ森章太郎さんが私に言ってくれた言葉で、座右の銘にしています。今後もこの言葉を胸に仕事に励みたいと思います。
これは、故・石ノ森章太郎さんが私に言ってくれた言葉で、座右の銘にしています。今後もこの言葉を胸に仕事に励みたいと思います。
今野さんは、石ノ森章太郎先生と遠縁に当たるのだとか。それで石ノ森章太郎とも生前、パーティーなどで親しく言葉をかわしていたらしい。
「量を書くことでしか質は向上しない」
この言葉を読んだ瞬間、ぼくも石ノ森章太郎先生から同じことを言われたことがあったのを思い出していた。
以下の文章は、2005年に講談社から発売された『Official File Magazine 特撮ヒーローBESTマガジン VOL.2』から、石ノ森章太郎にまつわる思い出のエッセイを依頼されて書いたものの、スペースの関係で入りきれずボツになったものである(ムックには書き改めた原稿を掲載)。
うまくなりたければ量を描け
「『怪傑ハリマオ』のトレスの仕事をしてくれない?」
という連絡が、石森プロで事務員をしていたマンガ同人誌仲間の女性から届いたのは、1971年初夏のことだった。石森プロとは、石ノ森章太郎先生のマンガ作品の版権管理やテレビ化作品の企画を担当する会社で、当時、北新宿のマンションの一室に事務所が置かれていた。
「週刊少年マガジン」に連載された『怪傑ハリマオ』が、虫プロ商事から復刻出版されることになったのだが、原稿が1枚も残っていなかった。そのため、雑誌の誌面を撮影した写真にトレーシングペーパーを当て、ペンでトレスしたものを原稿のかわりに使うことになったのだ。
細井ゆうじ、ひおあきらといったマンガ同人誌の仲間に、石ノ森先生のアシスタントを退職したばかりの土山よしきさんが加わり、えいやっと一斉に作業したため、トレスの仕事は短時間で終わったが、石森プロは、そこでぼくたちを解放してはくれなかった。そのとき石森プロは、まさに風雲急を告げる状態に置かれていたからだ。
![]() 『Official File Magazine 特撮ヒーローBESTマガジン VOL.2 (Kodansha official file magazine)』(講談社/2005年10月刊/600円) |
当時、ギャグマンガ家を志望していたぼくは、『さるとびエッちゃん』を担当することになった。ランドセルや筆箱、色鉛筆の箱、コップに茶碗に弁当箱など、子どもが使いそうな道具やオモチャにつける『エッちゃん』の絵を描く仕事である。下絵、ペン入れ、仕上げの段階で石ノ森先生のチェックを受け、そのたびにデッサンのゆがみや色づかいを修正された。練馬区桜台にある石ノ森先生の自宅兼スタジオか、桜台駅前にあるラタンという喫茶店に出かけては先生の監修を受け、北新宿の石森プロに泊まり込みで絵を描く毎日だった。
石森プロには、東映の平山亨プロデューサーをはじめとするテレビ関係者やオモチャ業界、編集者、ライターといった人たちが、入れかわり立ちかわりにあらわれた。深夜になると麻雀がはじまり、たいてい徹夜になる。ちょっとした梁山泊のようでもあり、紫煙と酒の匂いと麻雀パイをかきまわす音のなかで、次々と新しい企画が生み出されていた。
そんなことがつづいていたある日のこと、ぼくは、石森プロのマネージャーに呼ばれ、まもなく創刊される「テレビマガジン」に連載される『仮面ライダー』のマンガを描いてみないかと持ちかけられた。石ノ森先生が、「すがやがいいんじゃないか」と推薦してくれたというのだ。
ぼくの担当はギャグマンガで、『ライダー』のような絵柄とは無縁のはずだったが、チラリと思い当たることがあった。石ノ森先生が描いた『変身忍者嵐』の絵にペン入れをしたとき、ペンタッチを似せて描いたら、石ノ森先生に、「よく似てるな」と感心されたことがあったのだ。
自分の絵柄や個性は皆無だったが、いろんなマンガ家の絵の特徴をつかんで似せるのは得意だった。ギャグマンガ家から劇画家のアシスタントまでを同時にこなし、生活の糧を得ていたこともあるほどだ。『仮面ライダー』への抜擢も、そんな小器用さが評価されてのものだったらしい。
とはいえ背景や商品用のカットは描けても、マンガとなると話は別になる。いざ「テレビマガジン」用の『仮面ライダー』に取りかかると、絵の基礎もできていないことが露呈され、七転八倒の苦しみを味わった。まずネームの段階で石ノ森先生から何度もダメを出され、ペン入れの段階でまた描き直し。3色と2色で計18ページのマンガに3週間もかかり、ようやく先生からOKが出て、Kさんという担当編集者に手渡すことができた。
原稿ができるまでの過程を見ていたKさんは、「この新人は、1年も保たずに田舎に帰るだろうな……」と思ったという(※注1)。悪戦苦闘して仕上げたわりには、絵もヘタで、ベテラン編集者の目には、ひどいマンガに見えたことだろう。
翌年になると、さらに驚くことが待っていた。テレビで『仮面ライダー』がブレイクしたのを受け、秋田書店の月刊少年誌「冒険王」でも『仮面ライダー』のマンガが連載されることになり、ここでもぼくが起用されることになったのだ。
石森プロに入ってきたばかりの山田ゴロ君に手伝ってもらい、なんとか第1回の45ページを仕上げ、担当編集者に渡したのだが、その直後、「冒険王」の編集長(※注2)が血相を変えて、石森先生とぼくたちが打ち合わせをしていた京王プラザホテルのロビーに押しかけてきた。石森プロの事務所から、居場所を聞いてきたらしい。
編集長は、「こんなヘタクソは使えない。次の号から別のマンガ家に変えてくれ!」と、ぼくが描いた『仮面ライダー』1回目のゲラ刷りをテーブルの上に叩きつけたのだ。
首がすくむ思いとは、まさにこのことだった。ああ、せっかくつかんだチャンスも、これでおしまいか――と、ぼくは覚悟した。
ところが石ノ森先生は、少しもあわてずに、あっさりといった。
「おれが責任を持つから、すがやでつづけさせてくれ」と――。
石ノ森先生に、こういわれては渋々ながらも編集長も引きさがるざるを得なかった。
「とにかく、いまはよけいなことを考えなくていい。とにかく量を描け。ヘタだと思ったら人の二倍描け。マンガは描いていればうまくなる。とにかく描くしかないんだ」
編集長が帰ったあと、石ノ森先生はぼくにこういってくれた。
いうさらにマネージャーに別の提案をした。「原作・石森章太郎(当時)/まんが・石森プロ」という作者名のクレジットに、「すがやの名前を出してやれ」というのだ。
「いいんですか?」と訊いたぼくに、「石森プロになってると、このヘタクソな絵をおれが描いたと思われて迷惑なんだよ」と石ノ森先生は、笑いながら答えてくれた。もちろん、それはジョークである。あとでマネージャーから聞いた話では、「名前を誌面に出したほうが、すがやもやる気が増すし、責任感も出るだろうから」というのが本当の理由だった。
さらに石森プロは、皮一枚で首がつながったぼくに、山ほどの仕事を出してくれた。よけいなことを考えるヒマどころか、寝るヒマもない。薬局で買ってきた眠気覚ましの薬を愛飲しつつ、毎日、毎晩、『仮面ライダー』を描くことになった。『ライダー』の視聴率上昇を受けて、「冒険王」では別冊まで出て、そこにもぼくが『ライダー』を連載することになったのだ。テレビ人気の影響で雑誌連載のマンガの人気も高く、おかげで、マンガのヘタクソなことは、どこかに吹き飛んでいた。
小学館の学年誌では『人造人間キカイダー』の連載もはじまり、さらに忙しさが増した頃、テレビの『仮面ライダー』に撮影の遅れが生じ、「冒険王」のマンガに登場させるゲルショッカーの怪人のデザインが間に合わなくなったことがあった。「冒険王」は月刊誌であるため、1ヶ月以上早くデザインを受け取っていないと、怪人の登場のタイミングがずれてしまうのだ。
怪人のデザインができるのを待っていたら、マンガの締切に間に合わなくなってしまう。そこで窮余の一策として、ぼくがマンガ用にオリジナルの怪人を作って登場させることにした。
そのときデザインした怪人「クラゲウルフ」は、そのままテレビにも採用されることになるのだが、完成したマンガの原稿を、石森プロに来社していた石ノ森先生に監修してもらいにいくと、先生の口から飛び出してきたのは、予想もしていなかった言葉だった。
「キャラクターもよくできているし、ストーリーもいい。マンガ家に大事なオリジナリティを出そうとしているのが、よくわかる。絵は、まだまだだけど、数をこなしているうちに格好がついてくるものだ。ここまでできれば、マンガ家としてやっていけるよ。今日で監修はオシマイ。あとは、自分で頑張りな!」
原稿を読み終わったとたん、石ノ森先生が、ニッコリと笑って、こういってくれたのだ。
「あ、ありがとうございます……」
ぼくは、卒業証書を受け取るようなつもりで『仮面ライダー』の原稿を受け取った。
そのまま「冒険王」の編集者が待つ近所の喫茶店に向かったのだが、足取りが軽すぎて、なんだか雲の上を歩いているような心もちだった。
梅雨が明けたばかりの空に、太陽が白く輝いていた。1972年――「テレビマガジン」連載の『仮面ライダー』を描きはじめてから、まもなく1年になろうとする夏の午後のことだった。
(了)
※注1=1978年になって、ぼくが「月刊少年マガジン」に原作つきのレースマンガを連載することが決まったとき、Kさんから電話で呼び出され、「月刊でも『少年マガジン』は『少年マガジン』だから」といって個人的に祝っていただいたことがある。幻の銘酒といわれていた「越乃寒梅」をご馳走していただいたのだが、これは「お詫び」の意味も込めてとのことだった。ぼくが「テレビマガジン」で『仮面ライダー』の連載をはじめたとき、あまりのヘタさ加減に驚いて「1年も保たずに田舎に帰るだろうな……」と思っていたことを、このとき初めて打ち明けてくれたのだ。「ぼくの編集者としての目に狂いがあったことになるけれど、そんなことを考えたこと自体が自責の念みたいになっちゃてね」というわけで、自腹で「お詫び」の席を設けてくれたのだ。
Kさんは、ぼくが小学館漫画賞を受賞したときにも、「おめでとう」と電話をかけてくれた。さらにその後、講談社の「コミックモーニング」(現「モーニング」)で連載した『饅頭こわい』という株式コミックをベースに、『一番わかりやすい株入門』という株式取引の入門マンガを出したときには、そのコミックス部門の責任者として再会した。このときKさんは、「すがやクン。この本、コミックス扱いではなく実用書扱いにしといたからね」と手配してくださった。マンガの単行本は、コミックス扱いだと1万部単位でないと増刷できないが、実用書扱いだと1,000部単位でも増刷できるのだとか。「この内容なら細く長く売れそうだから」とのことで、こんな配慮になったのだが、実際のところは以後3年ちかくにわたり、毎月1万から数万の単位で増刷がつづき、60万部に達するヒット作になった。これは、ぼくの作品の中で、単著の売り上げとしては最高記録である(ただし、1987年10月の株価大暴落〈ブラックマンデー〉を機に、パタリと売行きも増刷もストップした)。
※注2=有名な故・壁村耐三編集長。壁村氏は、『仮面ライダー』の連載がスタートした号を最後に「冒険王」から「少年チャンピオン」の編集長に異動(週刊、月刊を兼任)。しばらくしてから壁村氏から電話がかかってきて、「編集部まで出てこないか」とのこと。ドギマギしながら出かけていくと、「『仮面ライダー』を見ていたら、だいぶうまくなってきたようなんで、『月刊チャンピオン』でも仕事を頼もうかと思ってね」と依頼されたのが、「誌上ロードショー」という映画をマンガ化する仕事。
最初に描いたのは『ベンハー』で、つづいて『続・猿の惑星』、『ダーティ・ハリー2』『ラストアメリカンヒーロー』『マックQ』といった映画のコミカライズを手がけた。さらに「週刊少年チャンピオン」でつづいていた新人の10週連載の枠でも起用してもらえることに。ところが、担当編集者と一緒に取材もしてまわり、第1回のネームに取りかかっていたときのこと、中東で起きた戦争が引き金になったオイルショックが発生し、用紙や印刷費が値上がりで「少年チャンピオン」は減ページを決定(ほとんどの雑誌がページを減らした)。そのあおりで新人の連作枠もなくなって、ぼくの週刊誌デビューも幻と消えた。
そんなことはあっても、「こんなヘタクソは使えない」と怒っていた壁村氏が、そのヘタクソな新人の動向を、その後もチェックしてくれていたことについては、いまでも感謝しています。
こんな体験を何度もしているせいか、最近のマンガ家と編集者のギスギスした人間関係の話を読んだり聞いたりするたび、ちょっとココロが痛むんですよね。ひとりだけの力では、マンガ家になんかなれません。いや、もしなれたとしても、つづきません。量を描くこと。それは編集者との人間関係が増えることも意味しています。
(追記)
2008年7月13日(日)の午後にTBSラジオで、石ノ森章太郎先生に関する番組があります。すがやみつるも思い出を語っています。詳細はこちらで。
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http://sugaya.otaden.jp/t416
ゲームセンターあらしが好きで、漫画家になりたいと思っていた時期があり、「すがやみつるのマンガ入門」(だったっけ・・・)を持ってました。
そこでも、とにかく描いて描いて、描きまくるしかない、という閉めだったっすねぇ・・・
残念ながら漫画家にはならず、しがないサラリーマンをやってます。
そこでも、とにかく描いて描いて、描きまくるしかない、という閉めだったっすねぇ・・・
残念ながら漫画家にはならず、しがないサラリーマンをやってます。
Posted by がっち at 2008年07月03日 22:52
月産500ページとは驚愕です
やはり、どんなものでも続けないと駄目なんですね
やはり、どんなものでも続けないと駄目なんですね
Posted by 悪い土 at 2008年07月05日 01:53
たぶん、大事なことは「考える前に描け」ということだと思います。
30年くらい前ですと、週刊誌4本、5本、6本……と連載している方も珍しくありませんでした。
絵の密度が上がったせいもあるでしょうが、最近は週刊誌1本くらいでヒイヒイになっているマンガ家が多いようですね。編集者のプレッシャーも大きいのでしょうが。
ぼくはメインは月刊誌でしたが、基本的に、どれも「読み切り連載」でした。こんな読み切りを多くやると、度胸がつくように思います。
30年くらい前ですと、週刊誌4本、5本、6本……と連載している方も珍しくありませんでした。
絵の密度が上がったせいもあるでしょうが、最近は週刊誌1本くらいでヒイヒイになっているマンガ家が多いようですね。編集者のプレッシャーも大きいのでしょうが。
ぼくはメインは月刊誌でしたが、基本的に、どれも「読み切り連載」でした。こんな読み切りを多くやると、度胸がつくように思います。
Posted by すがやみつる/菅谷充
at 2008年07月05日 03:56
at 2008年07月05日 03:56(当ブログの内容に無関係のトラックバック、コメントは削除させていただきますので、ご了承ください。メールアドレス、URLの登録は禁止させていただきました)




