2008年08月05日

■『仮面ライダー青春譜』第24回

 第3章 マンガ家への道

●高校生活の終わり

 ぼくが通っていた高校は受験校だったせいで、三年生になると、国公立、私立理系、私立文系にコースが分かれることになっていた。
 それぞれの受験科目に応じた授業に重点が置かれるのだが、大学にいかないぼくは、授業がいちばんラクな私立文系のコースを選ぶことにした。
 三年生になると、進学相談や父兄面談が行なわれるのだが、すでに大学にいかないと宣言していたため、その行事も省略されることになった。
「ほかの生徒の邪魔にならなければ、卒業させてやるからな」と、担任が保証してくれたので、ぼくは気分が乗らないと、一日の大半を図書室で過ごすようになった。
 マンガのストーリーを考えるか、本を読んで、ただひたすら時間をつぶすのが、毎日の日課となったのだ。
 井伏鱒二や三島由紀夫の全集からモーパッサンの全集まで読み、講談社の「我らの文学」から純文学雑誌の「文学界」や「群像」まで読破して、ひたすら同級生の授業が終わる時間を待った。

『ミモザ夫人』新書版表紙
『ミモザ夫人』新書版裏表紙
 あの頃、多くの若者がドキドキしながら読んだ『ミモザ夫人』。最近、古書店で見つけて購入。でも、いま読み返すと、そんなに露骨な描写があるわけでもない。本宮ひろ志さんの『俺の空』に雰囲気が似ている。
 教室で授業を受けるときは、誰かが持ってきた「平凡パンチ」を読んだ。五木寛之の『青年は荒野をめざす』に胸おどらせ、北原武夫の『ミモザ夫人』という官能小説に妄想をかけめぐらせた。
 マンガ同人誌「墨汁三滴」の仲間は、次々とアシスタントの口を見つけ、就職先を決めていった。会長の菅野誠は、通っていた工業専門学校を三年で中退し、石森先生のアシスタントになることが決まっていた。しかも、夏休みには、近所に住む宮谷一彦氏のところにも手伝いに行っていた。
 宮谷氏は、ぼくたちのような「COM」世代にとっては、太陽のように輝く新進劇画家だった。そんな劇画家から手伝わないかと声をかけられるだけで、菅野の腕前が想像できようというものだ。もちろん、うらやましくてたまらなかった。
 ほかの同学年の仲間も、夏休み前には、江波じょうじ、斎藤ゆずる両先生のアシスタントになることが決まり、高卒後の動向が決まっていないのは、千葉県に住む小川まり子とぼくのふたりだけになっていた。小川まり子は、線が少しラフだったが、少年マンガのような骨太のストーリーマンガが得意な女子高生だった。
 焦ったぼくは夏休みに上京したときに、練馬区大泉学園に住んでいた江波じょうじ先生を訪ね、高校卒業後にアシスタントにしてもらう約束を取りつけた。先に江波先生のアシスタントになることが決まっていた細井雄二の紹介だった。
 勝手に就職先を決めたことを家にもどって報告したとたん、さすがに母は泣き崩れたが、ぼくのほうは、ついにプロの世界への足がかりが得られたことで、ウキウキ気分になっていた。
 その頃、母が勤めていた料亭には、ぼくが通っていた高校の先生方が、宴会のために、しばしば訪れていた。受験校でありながら、陸上競技だけは全国に名を知られた高校だったが、その陸上部顧問の体育教師が、宴会にやってくるたびに調理場に足を運んできては、「息子を大学にいかせてやってくれ」と、母を口説いていたのだという。その教師も、父親がいなくて貧しい家に育ったのだが、お母さんが行商をして、息子の大学への入学金をこしらえてくれたのだそうだ。
「これからは、大学くらい出ていないと、世の中に通用しない」というのが、その教師の決まり文句で、奨学金の資料なども持ってきてくれていたらしい。
 少し前までは、頭の片隅のどこかに、大学に行けない悔しさも残っていた。大学には行かないつもりだったのに、どの程度の大学に入れるのかを確認しておきたくて、旺文社や学研の大学入試模擬試験も毎回受けていたほどだったのだ。もちろん受験勉強なんてしたことがないから、理系の国公立大学は全滅。東京六大学の一部ならば、もしかすると入れる可能性があるかも……というような成績だった。
高校3年生のときの成績表。
高校3年生の成績表(クリックで拡大)。
高校3年生のときに受けた旺文社の模擬試験。
高校3年生のときに受けた旺文社の模擬試験(クリックで拡大)。
高校3年生のときに受けた学研の模擬試験。
同じく学研の模擬試験。
 アシスタントになることが決まったあとも、模擬試験は受けつづけたが、たぶん、自分のアイデンティティのようなものを確認しておきたかったのだろう。
 母には、四年間だけ時間をくれ――と頼み込んだ。四年というのは、もちろん、同級生が大学に行く期間である。
 四年後、大学を卒業し、就職した同級生の初任給よりも収入が少なかったら、マンガ家になるのをあきらめて郷里に帰り、母と同じ調理師になることを約束した。
 もしもマンガ家になれなかったら、手に職をつけるしかないと考えてはいたが、まだ上京もしていないこの時点では、マンガをあきらめて田舎に帰ることなど考えてもいなかった。とりあえず母を納得させるためには、ウソも方便だったのだ。
 すでに東京のマンガ仲間の実力を知り、「COM」などを通じて、同じ年でありながら、はるかに腕の立つマンガ家志望者がいることも知っていた。そんな腕っこきのマンガ家志望者と競わなくてはならないのだ。
高校1年生のとき描いたマンガ。
 高校1年生のとき描いたマンガ。松本零士先生に添削を受けたもの。
高校2年生のとき描いたマンガ。
 高校2年生のとき描いたマンガ。影響を受けていたマンガ家がわかる。
高校3年生のとき描いたマンガ。
 高校3年生のとき描いたマンガ。アシスタントになるため、ペンの練習に励む。プロの原稿を見て、アルバイトでアシスタントの経験をした後だけに、急激に絵柄が「具体的」になっている。
 そこで考えたのは、マンガ家としてデビューする前に、せめてアシスタントの仕事だけでも生活できるようにしておこう――ということだった。
 ぼくは、劇画からストーリーマンガ、そして、ギャグマンガと、ペンを変え、絵柄を変えて、いろいろな絵柄に挑戦した。どんなマンガ家のところでも手伝いができるようにするためだ。この訓練が、後で生活を助けることになろうとは、この時点では夢にも思っていなかった。
 この頃のアシスタント志望者は、誰もが斜線の掛け合わせを習う必要があった。宮谷一彦氏が導入した斜線のテクニックが、あっというまに劇画、マンガの世界を席巻し、細かい斜線を掛け合わせる技術が、アシスタントになるための必須条件となりつつあったからである。
 もちろんぼくも、シャシャカ、カリカリ……と、斜線を掛け合わせる練習にいそしんだ。その練習のおかげか、ペンの線は、急速にきれいになっていった。
 やがて、高校三年の二学期が終了した。三学期は、受験のために、授業もほとんどなくなる。実質上、この二学期が、最後の高校生活となった。
 冬休みに入る直前、就職がきまっていた江波じょうじ先生から電話がかかってきた。年末進行で仕事が厳しくなっているため、手伝いにきてほしいというのだ。ぼくは冬休みになるのを待ちかねて、マンガの道具と着替えを抱えて上京した。一九六八年の暮れ、東京の府中で三億円事件が起きた直後のことだった。
 細井雄二とふたりで先生の家に泊まり込み、アシスタントの仕事をした。同級生たちは、みんな受験勉強でヒイヒイしているはずだった。そんなとき、ぼくは、いちはやく「大人の世界」に飛び込んだような気になって、ちょっぴり優越感にひたっていた。

  つづく


Posted by すがやみつる/菅谷充 at 05:20
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