2008年08月25日
■『仮面ライダー青春譜』第45回
第5章 見習い編集者の頃
●松本零士氏の〈劇画〉担当編集者に
昭和四十四年(一九六九)の暮れも押し詰まった頃、ぼくは社長のお供をして、松本零士氏のお宅を訪ねることになった。
用件は、「週刊女性自身」でスタートすることになった〈連載劇画〉の依頼である。「女性自身」の〈連載劇画〉は、鈴木プロが編集を請け負うことになっていた。
この頃、青年コミック誌の影響などもあって、大人が読める〈劇画〉が大ブームになっていた。コミック専門誌だけでなく、男性向け、女性向けの週刊誌でも〈劇画〉を連載するケースが増えていたことから、「女性自身」も遅れてはならじと〈劇画〉の連載に踏み切ったというわけである。
ちなみに、〈劇画〉と〈〉でくくっているのは、この頃の〈劇画〉は、「大人が読めるストーリーマンガ」くらいの意味に拡大解釈されていたからである。「女性自身」が、初の〈連載劇画〉に松本零士氏を起用したことでも、いかに〈劇画〉の定義が曖昧だったか、よくわかるというものだ。
松本氏のお宅に着いたのは夜になっていた。通された応接室のソファには、すでに高校生のとき、二度ほど腰を下ろしたことがあった。
応接室に入ってきた松本氏に挨拶したが、どうやらすっかり忘れられていたらしい。
鈴木社長は、松本氏の雑誌ごとの原稿料がいくらか、リサーチをすませていた。そのうえで「女性自身」の原稿料を提示した。マンガ誌に比べると破格ともいえる額である。もちろん交渉は、一瞬のうちに妥結した。
このようなリアルな交渉の現場にまで同席させられたのは、いまだ見習いではあるが、編集者としては将来を嘱望されていたためらしい。会社では編集の仕事のほかに、お遊びページのコママンガやカットも描かせてもらっていたが、「マンガ家はあきらめて、編集者として骨を埋めろ」と、あいかわらず耳にタコができそうなくらいに言われつづけていた。
正月休みに郷里に帰ると、やはり帰郷していた清つねおさんが、我が家を訪ねてきた。
「菅谷くんはマンガ家よりも編集者の方が向いています。一人前の編集者に育てるので、お母さんからも頑張るよう言ってあげてください」
という鈴木プロ社長からの伝言を母に伝えるためである。社長は、外堀も埋める手に出てきたのだ。
ぼくは、編集の仕事もマンガ家になるための腰かけのつもりだったが、「ぼくらマガジン」で、副編集長にカットの仕事を見限られたばかりだった。こんな現実をつきつけられては、マンガ家になりたいという夢もしぼまざるをえない。事実、ぼくの心は揺らいでいた。
年が明けて昭和四十五(一九七〇)年に入ると、すぐに「女性自身」で松本零士氏の手になる『白夜のオルフェ』の連載がスタートした。五木寛之氏の「北欧小説集」の一篇を〈劇画化〉したもので、全五回の予定だった。
原稿は、毎回十ページ前後と短かかったが、毎回、泊り込みをしないと原稿が取れなかった。
締め切り時間が過ぎても原稿ができそうにないときは、とりあえずネームだけ先に取りにいく。ネームというのは、もちろんマンガのセリフのこと。これを写真植字で打っているあいだに原稿を進めてもらい、できあがった原稿に写植を貼りつけるのが毎回の恒例になっていた。
しかし、ネームだけ入った原稿用紙(松本氏のマンガの原稿用紙は、スケッチブックを切り離した厚い画用紙だった)の上にトレーシングペーパーをかさね、セリフを書き写していくのだが、走り書きのような字だったため、読めない文字がたくさんあった。松本氏はネームを入れると、原稿だけ置いて出かけていることが多く、夫人の牧美也子氏の助けを借りてネームを書き写したこともある。
この連載の担当中、ぼくは、松本氏の家の応接間で、思わぬ感動を味わうことになった。応接間にしつらえられた暖炉のなかに、古いマンガの原稿が押し込められていたのだが、そこに、あの『燃えろ南十字星』の原稿もあったのだ。そう、ぼくがマンガを描くきっかけになった松本氏の傑作航空戦記マンガである。
ぼくは、原稿の完成を待つあいだ、そのナマ原稿を見させていただいた。零戦が、グラマンが画面の上で躍る『燃えろ南十字星』の原稿は、徹夜の原稿待ちもすっかり忘れさせてくれるほど素晴らしいものだった。
――本当は、マンガを描くために東京に出てきたはずなのに、それが、いつのまにかマンガの編集をする立場になってしまっている。こんなことでいいのか……?
ぼくのマンガの原点ともいえる作品のナマ原稿をながめているうちに、こんな疑問が脳裏をかすめ去った。
会社では、あいかわらず社長から、「菅谷クンは、マンガよりも編集の仕事の方が向いている」と、しつこくいわれつづけていた。あまり何度もいわれると、反抗したくなるのも人情というものだ。ぼくは、仕事を早く終えることができた日は、そそくさとアパートに帰り、ふたたびこっそりとマンガを描くようになった。
そうそう、松本邸では、徹夜で原稿を待っている途中、客間で休ませていただくことが一、二度あった。先生やアシスタントが徹夜で仕事をしている最中に、ふかふかの布団で寝かせていただくのは気が引けたが、つい誘惑に負けて眠りこけたものだ。
それでも早朝に目を覚まして飛び起きると、すぐに、ほかほかのご飯に味噌汁、塩鮭に焼き海苔の朝食が運ばれてきた。独身で、こんな朝食とは無縁の状態だったので、涙が出そうなほどおいしくいただいたのを憶えている。
「少年マガジン」あたりの編集部に詰めていると、マンガを担当している編集者たちは、マンガ家のところに泊まり込んだとき、奥さんやお手伝いさんが出してくれる夜食のことを話題にすることが多かった。大きなオニギリが一個のところから、定食のような食事の出るところまでいろいろで、「稼がせてやってるんだから、もう少しマシな夜食を出してくれてもいいのになあ……」なんて声も聞かれたものである。その点、松本邸での夜食や朝食は、申し訳なくなるほど立派なものだった。
ぼくがマンガ家になった後、調理師をしていた母を呼び寄せ、メシスタントになってもらったのも、自分の食事もそうだが、アシスタントと編集者に出す食事をキチンとしたものにしたかったからだ。プロの調理師がつくる食事だけに、アシスタントにも編集者にも喜んでもらえたが、こんなことを考えたのは、もちろん編集者時代の経験があったからだろう。おかげでエンゲル係数が飛び抜けて高くなり、原稿料の安い新人時代は、やりくりに苦労したものである。
つづく
●松本零士氏の〈劇画〉担当編集者に
昭和四十四年(一九六九)の暮れも押し詰まった頃、ぼくは社長のお供をして、松本零士氏のお宅を訪ねることになった。
用件は、「週刊女性自身」でスタートすることになった〈連載劇画〉の依頼である。「女性自身」の〈連載劇画〉は、鈴木プロが編集を請け負うことになっていた。
この頃、青年コミック誌の影響などもあって、大人が読める〈劇画〉が大ブームになっていた。コミック専門誌だけでなく、男性向け、女性向けの週刊誌でも〈劇画〉を連載するケースが増えていたことから、「女性自身」も遅れてはならじと〈劇画〉の連載に踏み切ったというわけである。
ちなみに、〈劇画〉と〈〉でくくっているのは、この頃の〈劇画〉は、「大人が読めるストーリーマンガ」くらいの意味に拡大解釈されていたからである。「女性自身」が、初の〈連載劇画〉に松本零士氏を起用したことでも、いかに〈劇画〉の定義が曖昧だったか、よくわかるというものだ。
松本氏のお宅に着いたのは夜になっていた。通された応接室のソファには、すでに高校生のとき、二度ほど腰を下ろしたことがあった。
応接室に入ってきた松本氏に挨拶したが、どうやらすっかり忘れられていたらしい。
鈴木社長は、松本氏の雑誌ごとの原稿料がいくらか、リサーチをすませていた。そのうえで「女性自身」の原稿料を提示した。マンガ誌に比べると破格ともいえる額である。もちろん交渉は、一瞬のうちに妥結した。
このようなリアルな交渉の現場にまで同席させられたのは、いまだ見習いではあるが、編集者としては将来を嘱望されていたためらしい。会社では編集の仕事のほかに、お遊びページのコママンガやカットも描かせてもらっていたが、「マンガ家はあきらめて、編集者として骨を埋めろ」と、あいかわらず耳にタコができそうなくらいに言われつづけていた。
正月休みに郷里に帰ると、やはり帰郷していた清つねおさんが、我が家を訪ねてきた。
「菅谷くんはマンガ家よりも編集者の方が向いています。一人前の編集者に育てるので、お母さんからも頑張るよう言ってあげてください」
という鈴木プロ社長からの伝言を母に伝えるためである。社長は、外堀も埋める手に出てきたのだ。
ぼくは、編集の仕事もマンガ家になるための腰かけのつもりだったが、「ぼくらマガジン」で、副編集長にカットの仕事を見限られたばかりだった。こんな現実をつきつけられては、マンガ家になりたいという夢もしぼまざるをえない。事実、ぼくの心は揺らいでいた。
年が明けて昭和四十五(一九七〇)年に入ると、すぐに「女性自身」で松本零士氏の手になる『白夜のオルフェ』の連載がスタートした。五木寛之氏の「北欧小説集」の一篇を〈劇画化〉したもので、全五回の予定だった。
原稿は、毎回十ページ前後と短かかったが、毎回、泊り込みをしないと原稿が取れなかった。
締め切り時間が過ぎても原稿ができそうにないときは、とりあえずネームだけ先に取りにいく。ネームというのは、もちろんマンガのセリフのこと。これを写真植字で打っているあいだに原稿を進めてもらい、できあがった原稿に写植を貼りつけるのが毎回の恒例になっていた。
しかし、ネームだけ入った原稿用紙(松本氏のマンガの原稿用紙は、スケッチブックを切り離した厚い画用紙だった)の上にトレーシングペーパーをかさね、セリフを書き写していくのだが、走り書きのような字だったため、読めない文字がたくさんあった。松本氏はネームを入れると、原稿だけ置いて出かけていることが多く、夫人の牧美也子氏の助けを借りてネームを書き写したこともある。
この連載の担当中、ぼくは、松本氏の家の応接間で、思わぬ感動を味わうことになった。応接間にしつらえられた暖炉のなかに、古いマンガの原稿が押し込められていたのだが、そこに、あの『燃えろ南十字星』の原稿もあったのだ。そう、ぼくがマンガを描くきっかけになった松本氏の傑作航空戦記マンガである。
ぼくは、原稿の完成を待つあいだ、そのナマ原稿を見させていただいた。零戦が、グラマンが画面の上で躍る『燃えろ南十字星』の原稿は、徹夜の原稿待ちもすっかり忘れさせてくれるほど素晴らしいものだった。
――本当は、マンガを描くために東京に出てきたはずなのに、それが、いつのまにかマンガの編集をする立場になってしまっている。こんなことでいいのか……?
ぼくのマンガの原点ともいえる作品のナマ原稿をながめているうちに、こんな疑問が脳裏をかすめ去った。
会社では、あいかわらず社長から、「菅谷クンは、マンガよりも編集の仕事の方が向いている」と、しつこくいわれつづけていた。あまり何度もいわれると、反抗したくなるのも人情というものだ。ぼくは、仕事を早く終えることができた日は、そそくさとアパートに帰り、ふたたびこっそりとマンガを描くようになった。
そうそう、松本邸では、徹夜で原稿を待っている途中、客間で休ませていただくことが一、二度あった。先生やアシスタントが徹夜で仕事をしている最中に、ふかふかの布団で寝かせていただくのは気が引けたが、つい誘惑に負けて眠りこけたものだ。
それでも早朝に目を覚まして飛び起きると、すぐに、ほかほかのご飯に味噌汁、塩鮭に焼き海苔の朝食が運ばれてきた。独身で、こんな朝食とは無縁の状態だったので、涙が出そうなほどおいしくいただいたのを憶えている。
「少年マガジン」あたりの編集部に詰めていると、マンガを担当している編集者たちは、マンガ家のところに泊まり込んだとき、奥さんやお手伝いさんが出してくれる夜食のことを話題にすることが多かった。大きなオニギリが一個のところから、定食のような食事の出るところまでいろいろで、「稼がせてやってるんだから、もう少しマシな夜食を出してくれてもいいのになあ……」なんて声も聞かれたものである。その点、松本邸での夜食や朝食は、申し訳なくなるほど立派なものだった。
ぼくがマンガ家になった後、調理師をしていた母を呼び寄せ、メシスタントになってもらったのも、自分の食事もそうだが、アシスタントと編集者に出す食事をキチンとしたものにしたかったからだ。プロの調理師がつくる食事だけに、アシスタントにも編集者にも喜んでもらえたが、こんなことを考えたのは、もちろん編集者時代の経験があったからだろう。おかげでエンゲル係数が飛び抜けて高くなり、原稿料の安い新人時代は、やりくりに苦労したものである。
つづく
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