2008年08月27日
■『仮面ライダー青春譜』第47回
第5章 見習い編集者の頃
●宮谷一彦氏の『海を見ていたジョニー』
ここでふたたび五木寛之氏の小説が候補にあがった。こんどは『海を見ていたジョニー』である。五木氏は、原作の使用については即座にOKしてくれたが、あらためて注文がついた。五木氏は、松本零士氏の絵柄が好みではなかったようで、『海を見ていたジョニー』のマンガ化にあたっては、先に、マンガ家の絵を見せて欲しいというのだ。
「女性自身」の編集長と担当編集者から、ぼくと鈴木社長に呼び出しがかかった。呼ばれたのは西池袋の小料理屋の座敷で、マンガ家を誰にしたらいいかという相談だった。
ぼくは、松本氏が五木氏の作品をマンガ化する際に原作の小説を読んだのがきっかけで、その頃、単行本になっていた大半の作品を読んでいた。高校生のときに「平凡パンチ」に連載されていた『青年は荒野をめざす』を読んではいたが、本格的に五木作品を読んだのは、「女性自身」の仕事が決まってからのことだ。
中間小説というジャンルの小説を読む楽しみを覚えたのは、この仕事がきっかけだった。ミステリーやSFにも手を伸ばし、翻訳小説も読みふけるようになる。マンガ家志望者だったはずなのに、マンガなら会社で読めるという理由で、自分で買うマンガ雑誌は大人マンガ誌の「漫画サンデー」だけ(東海林さだお、黒鉄ヒロシ、秋竜山、砂川しげひさ氏など、当時の新進気鋭の大人漫画家の作品が好きだった)。
あとは「小説現代」「オール読物」「小説新潮」などの中間小説誌を毎号購読し、松本清張や高木彬光、大藪春彦といったミステリーやアクション系の小説も、古本が多かったが、やはりむさぼるように読んでいた。
本を読むのは通勤時(といっても二駅で五分だったが)と原稿取りや出版社への往復の電車やバスの車内が中心だった。
マンガ家になって生活ができるようになったら、次は小説を書いてみたい……という妄想を抱くようになったのも、この頃のことだ。まだマンガ家にもなっていないのに、こんなことを考えるのだから、実にノーテンキな性格といわざるを得ない。
『海を見ていたジョニー』も、もちろん読んでいた。デビュー作の『さらばモスクワ愚連隊』、直木賞受賞作の『蒼ざめた馬を見よ』を表題にした短編集二冊が出たあと、三冊目の短編集として発売されたのが『海を見ていたジョニー』だった。
思春期の少年と黒人兵士の交流を描いた『海を見ていたジョニー』をマンガ化、劇画化できるとしたら、ひとりしかいない。ぼくは、そう確信していた。
「宮谷一彦さんでは、どうでしょう?」
高校生の頃から、すっかり魅せられていたマンガ家の名前を出すと、鈴木社長が即座に賛成した。社長は、元『COM』の編集者で、『COM』の新人賞でデビューした宮谷氏を高く買っていたひとりだった。
「どんな絵を描くの? 見本を見せないといけないんだけど」
編集長がいった。
「作品の切り抜きを持ってますから、それを届けます」
ぼくは、そう約束してアパートに帰ると、押し入れに大事に保管していた宮谷一彦氏の作品ファイルを引っ張り出した。宮谷氏のデビュー作『眠りにつく時』(COM)以来の作品を綴じたファイルである。
翌日、このファイルを光文社に届けると、「女性自身」の担当者が五木氏のところに見せにいってくれた。
五木氏も宮谷氏の絵が気に入り、即座にOKを出してくれたという。こうして『海を見ていたジョニー』は、宮谷氏のペンでマンガ化されることが決定した。ネーム取りと原稿取りを担当するのは、もちろん、このぼくである。
『海を見ていたジョニー』の連載が決定したのはいいが、一回目の締切は、すでに目前に迫っていた。
すでにネームを先行しなければならない状態である。ぼくはネーム取り用のトレペを持って、三鷹にあった宮谷氏の仕事場に向かった。
宮谷氏は、三鷹駅から徒歩五分ほどのアパートの一室を仕事場に使っていた。間取りは2DK。一部屋が宮谷氏の仕事部屋、もう一部屋がアシスタントの仕事部屋兼二段ベッドの置かれた仮眠室になっていた。
出かけたのは夜だったが、仕事部屋を訪ねると、ネームは一枚もできていなかった。出だしが決まらないのだという。
「ここで考えていてもダメだ。サウナに行こう」
宮谷氏は、突然、立ち上がった。「キミもおいでよ。おごってあげるから」
「は、はい……」
実は、サウナ風呂というものには入ったことがなかった。せっかくのチャンスなので、お言葉に甘えて、アシスタントと一緒についていくことにした。
タクシーで向かったのは吉祥寺のサウナだった。サウナの入り方もわからないので、おどおどしながら宮谷氏とアシスタントの後についていくだけだ。
サウナルームに入ると、宮谷氏は、じっと目を閉じたまま沈黙をつづける。どうやら『海を見ていたジョニー』のネームを考えているらしい。
サウナで汗を流し、外に出てくると、宮谷氏は予想外のことを口にした。
「ネームは、今夜のうちにやっておくから、明日の朝、取りにきてよ」
宮谷氏は、そう言い残して、アシスタントと一緒にタクシーに乗り込んでしまったのだ。吉祥寺の繁華街で置き去りにされたぼくは、しかたなく中央線と山手線を乗り継いで、会社にもどったのだった。
「ネームができるまで、ついていなけりゃダメじゃないか。もうギリギリなのは、わかっているんだろ?」
会社で社長に怒られたぼくは、いったんアパートにもどり、翌朝早く、宮谷氏の仕事場に向かった。
宮谷氏は不在でアシスタントしかいなかったが、仕事机の上に置かれた原稿用紙には、きちんとネームが入っていた。
宮谷氏が使うマンガの原稿用紙は、厚手の模造紙で、この上にトレペをかさね、吹き出しの形とネームを写し取っていく。
ぼくはネームを取るのにボールペンを使っていたのだが、筆圧が強くて原稿用紙に跡がついてしまうため、あとで宮谷氏から怒られることになる。その後のネーム取りは、柔らかい鉛筆に変更した。
写し取ったネームは、赤字で級数指定と小文字指定(促音を○で囲む)をし、市ヶ谷の大日本印刷の工場まで持っていく。ここには出版社各社の出張校正室があり、校了間際になると、何人もの編集者や校正マンが詰めていた。
ここで「女性自身」の担当編集者にネームを取ったトレペを渡し、先に写植の手配をしてもらうのだ。
(『海を見ていたジョニー』の原画数ページが、こちらのWebサイトで見られる。マンガファンで三鷹在住のミュージシャンの方のサイトである。ネームの指定がされたトレペがかかったものもあるが、ぼくの字なのかどうか、確証はない)
『海を見ていたジョニー』は、一回が八ページくらいだったが、なんといっても緻密な絵で知られる宮谷氏の原稿である。とても一晩では終わらない。
しかも宮谷氏は、編集者が仕事場に張りついていないと〈逃げられる〉という噂もあった。そのためか社長からは、「ネームを大日本印刷に届けたら、会社にはもどらなくていいから、原稿が上がるまで宮谷クンの仕事場に張りついていてくれ」と厳命された。おかげで週のうち二日から三日は、宮谷氏の仕事場に出かけ、最後の一日は、原稿が完成するまで徹夜につき合うのがローテーションとなった。
原稿が完成すると、三鷹駅から中央線の快速電車で四谷まで行き、ここで総武線各駅停車の電車に乗り換え、次の市ヶ谷で下車して、大日本印刷の工場に飛び込むのが、毎週の校了日の日課となった。〈劇画〉のページは、印刷インクが紺色の別ぺージ仕立てで、他のページよりも校了が早かった。
宮谷氏の担当になったおかげで、会社に出勤するのは週のうち半分くらいになった印象がある。それでも残る日は、「少年マガジン増刊」やコミックスの編集をつづけていた。
つづく
●宮谷一彦氏の『海を見ていたジョニー』
ここでふたたび五木寛之氏の小説が候補にあがった。こんどは『海を見ていたジョニー』である。五木氏は、原作の使用については即座にOKしてくれたが、あらためて注文がついた。五木氏は、松本零士氏の絵柄が好みではなかったようで、『海を見ていたジョニー』のマンガ化にあたっては、先に、マンガ家の絵を見せて欲しいというのだ。
「女性自身」の編集長と担当編集者から、ぼくと鈴木社長に呼び出しがかかった。呼ばれたのは西池袋の小料理屋の座敷で、マンガ家を誰にしたらいいかという相談だった。
ぼくは、松本氏が五木氏の作品をマンガ化する際に原作の小説を読んだのがきっかけで、その頃、単行本になっていた大半の作品を読んでいた。高校生のときに「平凡パンチ」に連載されていた『青年は荒野をめざす』を読んではいたが、本格的に五木作品を読んだのは、「女性自身」の仕事が決まってからのことだ。
中間小説というジャンルの小説を読む楽しみを覚えたのは、この仕事がきっかけだった。ミステリーやSFにも手を伸ばし、翻訳小説も読みふけるようになる。マンガ家志望者だったはずなのに、マンガなら会社で読めるという理由で、自分で買うマンガ雑誌は大人マンガ誌の「漫画サンデー」だけ(東海林さだお、黒鉄ヒロシ、秋竜山、砂川しげひさ氏など、当時の新進気鋭の大人漫画家の作品が好きだった)。
あとは「小説現代」「オール読物」「小説新潮」などの中間小説誌を毎号購読し、松本清張や高木彬光、大藪春彦といったミステリーやアクション系の小説も、古本が多かったが、やはりむさぼるように読んでいた。
本を読むのは通勤時(といっても二駅で五分だったが)と原稿取りや出版社への往復の電車やバスの車内が中心だった。
マンガ家になって生活ができるようになったら、次は小説を書いてみたい……という妄想を抱くようになったのも、この頃のことだ。まだマンガ家にもなっていないのに、こんなことを考えるのだから、実にノーテンキな性格といわざるを得ない。
『海を見ていたジョニー』も、もちろん読んでいた。デビュー作の『さらばモスクワ愚連隊』、直木賞受賞作の『蒼ざめた馬を見よ』を表題にした短編集二冊が出たあと、三冊目の短編集として発売されたのが『海を見ていたジョニー』だった。思春期の少年と黒人兵士の交流を描いた『海を見ていたジョニー』をマンガ化、劇画化できるとしたら、ひとりしかいない。ぼくは、そう確信していた。
「宮谷一彦さんでは、どうでしょう?」
高校生の頃から、すっかり魅せられていたマンガ家の名前を出すと、鈴木社長が即座に賛成した。社長は、元『COM』の編集者で、『COM』の新人賞でデビューした宮谷氏を高く買っていたひとりだった。
「どんな絵を描くの? 見本を見せないといけないんだけど」
編集長がいった。
「作品の切り抜きを持ってますから、それを届けます」ぼくは、そう約束してアパートに帰ると、押し入れに大事に保管していた宮谷一彦氏の作品ファイルを引っ張り出した。宮谷氏のデビュー作『眠りにつく時』(COM)以来の作品を綴じたファイルである。
翌日、このファイルを光文社に届けると、「女性自身」の担当者が五木氏のところに見せにいってくれた。
五木氏も宮谷氏の絵が気に入り、即座にOKを出してくれたという。こうして『海を見ていたジョニー』は、宮谷氏のペンでマンガ化されることが決定した。ネーム取りと原稿取りを担当するのは、もちろん、このぼくである。
『海を見ていたジョニー』の連載が決定したのはいいが、一回目の締切は、すでに目前に迫っていた。
すでにネームを先行しなければならない状態である。ぼくはネーム取り用のトレペを持って、三鷹にあった宮谷氏の仕事場に向かった。
宮谷氏は、三鷹駅から徒歩五分ほどのアパートの一室を仕事場に使っていた。間取りは2DK。一部屋が宮谷氏の仕事部屋、もう一部屋がアシスタントの仕事部屋兼二段ベッドの置かれた仮眠室になっていた。
出かけたのは夜だったが、仕事部屋を訪ねると、ネームは一枚もできていなかった。出だしが決まらないのだという。
「ここで考えていてもダメだ。サウナに行こう」
宮谷氏は、突然、立ち上がった。「キミもおいでよ。おごってあげるから」
「は、はい……」
実は、サウナ風呂というものには入ったことがなかった。せっかくのチャンスなので、お言葉に甘えて、アシスタントと一緒についていくことにした。
タクシーで向かったのは吉祥寺のサウナだった。サウナの入り方もわからないので、おどおどしながら宮谷氏とアシスタントの後についていくだけだ。
サウナルームに入ると、宮谷氏は、じっと目を閉じたまま沈黙をつづける。どうやら『海を見ていたジョニー』のネームを考えているらしい。
サウナで汗を流し、外に出てくると、宮谷氏は予想外のことを口にした。
「ネームは、今夜のうちにやっておくから、明日の朝、取りにきてよ」
宮谷氏は、そう言い残して、アシスタントと一緒にタクシーに乗り込んでしまったのだ。吉祥寺の繁華街で置き去りにされたぼくは、しかたなく中央線と山手線を乗り継いで、会社にもどったのだった。
「ネームができるまで、ついていなけりゃダメじゃないか。もうギリギリなのは、わかっているんだろ?」
会社で社長に怒られたぼくは、いったんアパートにもどり、翌朝早く、宮谷氏の仕事場に向かった。
宮谷氏は不在でアシスタントしかいなかったが、仕事机の上に置かれた原稿用紙には、きちんとネームが入っていた。
宮谷氏が使うマンガの原稿用紙は、厚手の模造紙で、この上にトレペをかさね、吹き出しの形とネームを写し取っていく。
ぼくはネームを取るのにボールペンを使っていたのだが、筆圧が強くて原稿用紙に跡がついてしまうため、あとで宮谷氏から怒られることになる。その後のネーム取りは、柔らかい鉛筆に変更した。
写し取ったネームは、赤字で級数指定と小文字指定(促音を○で囲む)をし、市ヶ谷の大日本印刷の工場まで持っていく。ここには出版社各社の出張校正室があり、校了間際になると、何人もの編集者や校正マンが詰めていた。
ここで「女性自身」の担当編集者にネームを取ったトレペを渡し、先に写植の手配をしてもらうのだ。
(『海を見ていたジョニー』の原画数ページが、こちらのWebサイトで見られる。マンガファンで三鷹在住のミュージシャンの方のサイトである。ネームの指定がされたトレペがかかったものもあるが、ぼくの字なのかどうか、確証はない)
『海を見ていたジョニー』は、一回が八ページくらいだったが、なんといっても緻密な絵で知られる宮谷氏の原稿である。とても一晩では終わらない。
しかも宮谷氏は、編集者が仕事場に張りついていないと〈逃げられる〉という噂もあった。そのためか社長からは、「ネームを大日本印刷に届けたら、会社にはもどらなくていいから、原稿が上がるまで宮谷クンの仕事場に張りついていてくれ」と厳命された。おかげで週のうち二日から三日は、宮谷氏の仕事場に出かけ、最後の一日は、原稿が完成するまで徹夜につき合うのがローテーションとなった。
原稿が完成すると、三鷹駅から中央線の快速電車で四谷まで行き、ここで総武線各駅停車の電車に乗り換え、次の市ヶ谷で下車して、大日本印刷の工場に飛び込むのが、毎週の校了日の日課となった。〈劇画〉のページは、印刷インクが紺色の別ぺージ仕立てで、他のページよりも校了が早かった。
宮谷氏の担当になったおかげで、会社に出勤するのは週のうち半分くらいになった印象がある。それでも残る日は、「少年マガジン増刊」やコミックスの編集をつづけていた。
つづく
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