2008年10月05日
■『仮面ライダー青春譜』第66回
第7章 『仮面ライダー』騒乱記
●突然の石ノ森学園卒業式
壁村編集長の怒鳴り込み事件の後も、ぼくは石ノ森先生の厳しい監修を受けながら、「冒険王」の『新・仮面ライダー』を描いていた。さいわい(?)壁村編集長が、「週刊少年チャンピオン」と「月刊少年チャンピオン」の兼任編集長に異動し、「冒険王」の編集長が成田清美氏に交代したせいか、別のマンガ家に交代させられる気配はなくなっていた。
ほかにもクビがつながる理由があった。ぼくが描いた『新・仮面ライダー』が、読者のアンケートでダントツの一位だったらしい。もちろん、ぼくが描いたマンガのせいではなく、テレビの人気の余波を受けてのものだが、とりあえずは、このアンケート結果が、ぼくの連載をつづけさせる要因のひとつにはなっていたらしい。
また、この当時、絵の技術は、あまり問題にされなくなっていた。
絵が問題にされなくなった原因は、「少年ジャンプ」の創刊にあった。週刊マンガ誌としては後発の「少年ジャンプ」は、大家を他の雑誌に押さえられていたため、いきおい新人マンガ家を多く起用せざるをえなかった。
従来のマンガ界の基準から考えると、とても週刊誌の連載などできそうにない技術の持ち主が、何人も「少年ジャンプ」で連載するようになり、しかも高い人気を得ていたのだ。
「マンガに必要なのは技術よりも熱気だ!」
少年マンガ界では、こんな声が高まるようになっていた。しばらくすると、こんどは「技術よりも感性だ」といった声も聞こえてくるようになるが、「熱気」や「感性」主導型のマンガが増えたことが、少年マンガ誌における劇画の終焉につながったのではなかろうか。
もちろんぼくのマンガも、従来のマンガ界の基準だったら、とても雑誌には載せてもらえないようなレベルだった。それでも連載がつづけられたのは、石ノ森先生の名前と石森プロの看板のおかげだろう。
「冒険王」の連載は、クビになるどころか、それとは反対に、ますます仕事が増えていた。「冒険王」と並んで秋田書店では歴史のある「まんが王」が、突然、休刊になったと思ったら、「冒険王」に吸収されるかたちで「別冊冒険王・映画テレビマガジン」という新雑誌になり、この雑誌でも『仮面ライダー』がスタートすることになったのだ。
『仮面ライダー』の仕事が増えるのは、ぼくの腕や技術のせいではもちろんなく、テレビの視聴率が上昇しつづけていたおかげだった。
ますます忙しくなったぼくは、山田ゴロちゃんのほかに、やはりアシスタント予備軍として石森プロに入ってきた成井紀郎クンも応援に駆り出すことになった。
あいかわらずネーム、下絵、ペン入れ、仕上げの段階で、何度も先生の監修を受けていた。ところが、この監修が、ある日、突然、終了することになる。それは、一九七二年夏の暑い午後のことだった。
この頃の「冒険王」は、『仮面ライダー』をはじめとする特撮テレビ番組やアニメのコミカライズ作品によって、急激に売り上げを伸ばしていた。連載されているコミカライズ作品の大半は、テレビのシナリオをベースにしているためか、内容もテレビのダイジェストに近いものが多かった。
しかし、石森プロ(とダイナミック・プロ)は、コミカライズを原作者の身内が手がけていることもあって、テレビのシナリオを逸脱した自由な設定で描くことができた。ぼくが手がける「冒険王」版の『新・仮面ライダー』では、テレビでは一回につき一体しか出ないゲル・ショッカーの怪人が、毎回、四~五体も出てくる出血大サービスだった(血みどろの残虐シーンも多く、まさに出血大サービスだった。これはダイナミック・プロの石川賢さんが連載していた『変身忍者嵐』に影響されたものだ)。いちどに複数の怪人を登場させるという試みは、「冒険王」という月刊ペースの雑誌で、しかもページ数が多いからこそ可能になったことだ。
テレビの『仮面ライダー』は、石ノ森先生がデザインした怪人をベースに、脚本家がシナリオを書き、それから撮影に入る手順をとっていた。しかし、そのスケジュールが次第に遅れはじめ、脚本ができる前にマンガに着手するのが当たり前になった。怪人のデザインだけをヒントに、ストーリーもオリジナルで作らざるを得ない状況にもなっていたのである。
さらにはテレビの『仮面ライダー』の進行が遅れ、シナリオどころか怪人のデザインまで間に合わなくなったことがあった。
「しかたがない。すがやクン、自分で怪人をデザインしてよ」
というマネージャーの言葉にしたがって、ぼくが勝手にデザインした怪人を登場させることになった。
そのときデザインしたのがクラゲウルフという怪人で(のちにテレビでも同名の怪人として使われる)、科学者の父親が改造してできた怪人だが、子どもとして父を思う心が残っているという設定にした。
この回の原稿を石ノ森先生に見せたのは、代々木に引っ越した石森プロの二階にある先生の仕事部屋だった。先生は、マンガの仕事場を代々木の石森プロに移し、ここで原稿を描くようになっていた(ただし、練馬から代々木までの通勤は長つづきせず、すぐに仕事場を自宅にもどすことになる)。
先生に原稿を見せると、しげしげと読んでくれたあとで、次のような感想を述べてくれた。
「オリジナルで怪人をデザインしたうえに、ストーリーもよくできている。何よりも自分でアイデアを考えているのがいい。絵のほうは及第点とはいえないが、数をこなせばうまくなるからな」
そこまでいうと先生は、ニヤリと笑ってぼくの顔を見た。
「は……?」
一瞬、なんだろうと思って身構えるぼくに、先生は衝撃的な言葉を発したのだった。
「ここまで、よく頑張ったな。これだけ描ければ、マンガ家としてやっていけるよ。今日で監修はおしまい。あとは、自分ひとりで頑張んな」
いきなりの〈卒業宣言〉だった。落語でいえば、前座の段階が終わり、やっと二つ目になれたあたりだろうか。あまりにも唐突すぎるできごとで、しばらくのあいだ声も出なかった。
「あ、ありがとうございます……」
ぼくは、ようやく先生にお礼をいって部屋を出た。
石森プロの事務所から外に出て、アパートにもどるため新宿駅に向かったが、あまりのうれしさに、なんだか心がフワフワして、雲の上を歩いているようだった。西新宿の空は真っ青に晴れわたり、頭上には夏の太陽が白く輝いていた。
つづく
●突然の石ノ森学園卒業式
壁村編集長の怒鳴り込み事件の後も、ぼくは石ノ森先生の厳しい監修を受けながら、「冒険王」の『新・仮面ライダー』を描いていた。さいわい(?)壁村編集長が、「週刊少年チャンピオン」と「月刊少年チャンピオン」の兼任編集長に異動し、「冒険王」の編集長が成田清美氏に交代したせいか、別のマンガ家に交代させられる気配はなくなっていた。
ほかにもクビがつながる理由があった。ぼくが描いた『新・仮面ライダー』が、読者のアンケートでダントツの一位だったらしい。もちろん、ぼくが描いたマンガのせいではなく、テレビの人気の余波を受けてのものだが、とりあえずは、このアンケート結果が、ぼくの連載をつづけさせる要因のひとつにはなっていたらしい。
また、この当時、絵の技術は、あまり問題にされなくなっていた。
絵が問題にされなくなった原因は、「少年ジャンプ」の創刊にあった。週刊マンガ誌としては後発の「少年ジャンプ」は、大家を他の雑誌に押さえられていたため、いきおい新人マンガ家を多く起用せざるをえなかった。
従来のマンガ界の基準から考えると、とても週刊誌の連載などできそうにない技術の持ち主が、何人も「少年ジャンプ」で連載するようになり、しかも高い人気を得ていたのだ。
「マンガに必要なのは技術よりも熱気だ!」
少年マンガ界では、こんな声が高まるようになっていた。しばらくすると、こんどは「技術よりも感性だ」といった声も聞こえてくるようになるが、「熱気」や「感性」主導型のマンガが増えたことが、少年マンガ誌における劇画の終焉につながったのではなかろうか。
もちろんぼくのマンガも、従来のマンガ界の基準だったら、とても雑誌には載せてもらえないようなレベルだった。それでも連載がつづけられたのは、石ノ森先生の名前と石森プロの看板のおかげだろう。
「冒険王」の連載は、クビになるどころか、それとは反対に、ますます仕事が増えていた。「冒険王」と並んで秋田書店では歴史のある「まんが王」が、突然、休刊になったと思ったら、「冒険王」に吸収されるかたちで「別冊冒険王・映画テレビマガジン」という新雑誌になり、この雑誌でも『仮面ライダー』がスタートすることになったのだ。
『仮面ライダー』の仕事が増えるのは、ぼくの腕や技術のせいではもちろんなく、テレビの視聴率が上昇しつづけていたおかげだった。
ますます忙しくなったぼくは、山田ゴロちゃんのほかに、やはりアシスタント予備軍として石森プロに入ってきた成井紀郎クンも応援に駆り出すことになった。
あいかわらずネーム、下絵、ペン入れ、仕上げの段階で、何度も先生の監修を受けていた。ところが、この監修が、ある日、突然、終了することになる。それは、一九七二年夏の暑い午後のことだった。
この頃の「冒険王」は、『仮面ライダー』をはじめとする特撮テレビ番組やアニメのコミカライズ作品によって、急激に売り上げを伸ばしていた。連載されているコミカライズ作品の大半は、テレビのシナリオをベースにしているためか、内容もテレビのダイジェストに近いものが多かった。
しかし、石森プロ(とダイナミック・プロ)は、コミカライズを原作者の身内が手がけていることもあって、テレビのシナリオを逸脱した自由な設定で描くことができた。ぼくが手がける「冒険王」版の『新・仮面ライダー』では、テレビでは一回につき一体しか出ないゲル・ショッカーの怪人が、毎回、四~五体も出てくる出血大サービスだった(血みどろの残虐シーンも多く、まさに出血大サービスだった。これはダイナミック・プロの石川賢さんが連載していた『変身忍者嵐』に影響されたものだ)。いちどに複数の怪人を登場させるという試みは、「冒険王」という月刊ペースの雑誌で、しかもページ数が多いからこそ可能になったことだ。
テレビの『仮面ライダー』は、石ノ森先生がデザインした怪人をベースに、脚本家がシナリオを書き、それから撮影に入る手順をとっていた。しかし、そのスケジュールが次第に遅れはじめ、脚本ができる前にマンガに着手するのが当たり前になった。怪人のデザインだけをヒントに、ストーリーもオリジナルで作らざるを得ない状況にもなっていたのである。
さらにはテレビの『仮面ライダー』の進行が遅れ、シナリオどころか怪人のデザインまで間に合わなくなったことがあった。
「しかたがない。すがやクン、自分で怪人をデザインしてよ」
というマネージャーの言葉にしたがって、ぼくが勝手にデザインした怪人を登場させることになった。
![]() |
| 「冒険王」掲載『新・仮面ライダー』の「合成怪人クラゲウルフ」の巻より。怪人が口からぶらさげている首を描いたのは、成井紀郎クン。画像をクリックすると拡大表示されます。 |
そのときデザインしたのがクラゲウルフという怪人で(のちにテレビでも同名の怪人として使われる)、科学者の父親が改造してできた怪人だが、子どもとして父を思う心が残っているという設定にした。
この回の原稿を石ノ森先生に見せたのは、代々木に引っ越した石森プロの二階にある先生の仕事部屋だった。先生は、マンガの仕事場を代々木の石森プロに移し、ここで原稿を描くようになっていた(ただし、練馬から代々木までの通勤は長つづきせず、すぐに仕事場を自宅にもどすことになる)。
先生に原稿を見せると、しげしげと読んでくれたあとで、次のような感想を述べてくれた。
「オリジナルで怪人をデザインしたうえに、ストーリーもよくできている。何よりも自分でアイデアを考えているのがいい。絵のほうは及第点とはいえないが、数をこなせばうまくなるからな」
そこまでいうと先生は、ニヤリと笑ってぼくの顔を見た。
「は……?」
一瞬、なんだろうと思って身構えるぼくに、先生は衝撃的な言葉を発したのだった。
「ここまで、よく頑張ったな。これだけ描ければ、マンガ家としてやっていけるよ。今日で監修はおしまい。あとは、自分ひとりで頑張んな」
いきなりの〈卒業宣言〉だった。落語でいえば、前座の段階が終わり、やっと二つ目になれたあたりだろうか。あまりにも唐突すぎるできごとで、しばらくのあいだ声も出なかった。
「あ、ありがとうございます……」
ぼくは、ようやく先生にお礼をいって部屋を出た。
石森プロの事務所から外に出て、アパートにもどるため新宿駅に向かったが、あまりのうれしさに、なんだか心がフワフワして、雲の上を歩いているようだった。西新宿の空は真っ青に晴れわたり、頭上には夏の太陽が白く輝いていた。
つづく
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一人前と認められた側としてのいい場面ですねえ。
関谷ひさし「バンビーノ!」12巻では主人公を一人前と認めるきびしい先輩の目からいろいろいな感慨が描かれています。昨年の小学館漫画賞受賞作ですが、さすがなものがあります。
関谷ひさし「バンビーノ!」12巻では主人公を一人前と認めるきびしい先輩の目からいろいろいな感慨が描かれています。昨年の小学館漫画賞受賞作ですが、さすがなものがあります。
Posted by madi at 2008年10月07日 01:26
>madiさん、コメントをありがとうございます。
ところで「関谷ひさし」先生は、『バンビーノ!』じゃなくて、『ストップ! にいちゃん』ですよ、『ジャジャ馬くん』ですよ(^_^)。
ところで「関谷ひさし」先生は、『バンビーノ!』じゃなくて、『ストップ! にいちゃん』ですよ、『ジャジャ馬くん』ですよ(^_^)。
Posted by すがやみつる/菅谷充 at 2008年10月07日 01:44
失礼、せきやてつじ先生が「バンビ~ノ!」でした。
関谷ひさし先生は今年なくなられて追悼記事をみていたところでごっちゃになっていました。「ストップ!にいちゃん」はコミックスでまとめて読んだ記憶があります。いまおもえば上流にちかい暮らしをリアルに描いたマンガだったんですね。こどものころはわかりませんでした。
関谷ひさし先生は今年なくなられて追悼記事をみていたところでごっちゃになっていました。「ストップ!にいちゃん」はコミックスでまとめて読んだ記憶があります。いまおもえば上流にちかい暮らしをリアルに描いたマンガだったんですね。こどものころはわかりませんでした。
Posted by madi at 2008年10月07日 10:06
石森先生は大きい方だったんですね。
自分は青春時代にこういう方にはとうとう出会えませんでした。
自分は青春時代にこういう方にはとうとう出会えませんでした。
Posted by MMM at 2008年10月09日 20:26
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